政治とノンポリ

昨日は早稲田の田口さんとこの研究会。今回は、来月ポーランドで発表するという「哲学と政治」についての現象学的考察(!)について。

媒体性の現象学という新田さんの道具立てを用いて(紹介して?)、「理論/実践」という相互否定的依存性が差異として立ち上がるところを記述する、という筋立てはかなりクリアで、おそらく現象学プロパーのひとだったら「我が意を得たり」と諸手をあげて歓迎するものだと思うのだけれども、それだけに、単に「哲学」の側のモノローグに終わってしまう可能性も強い気がした。

件の発表の聴講者はおそらく現象学者だろうからもちろんこのままで立派な業績になると思いますが、哲学の可能性の問い直しを建前ではなくやろうとする研究会としては、もっと突き抜けたところまで議論してもいいのでは?と実は前回あたりから思っているのですけれど、どうなのでしょう?「認識論的な還元→生活世界へ、さらにそれを不断に批判する理性」という後期フッサールお馴染みの図式は、田口さんがこれまでやってこられたように「理性」を個々人の主体へと限定しないものとするとしてもなお、ある「現象学的視点」の特権性を維持しているわけで、研究会でもいったように、その認識論的な特権的位置こそ、社会科学をやっているひとたちが哲学を見限る契機となっているように思えるわけです。だからこそ、特権的視点を一義的な存在へと回収して、すべての出来事を政治的なものとみなす(フェミニズムの人たちがいう意味とは全く違う意味で、ですが)ところから議論を組み立てるドゥルーズの図式の意義も出てくるわけで、そうしてはじめて単なる観念論に終わらない具体的な話もできると思うのです。

が、そこら辺の話は、それこそ具体的な「実践」としてやっていかなければ、それこそ極端な観念論になってしまう可能性もあるでしょう。古典を読み、映画を見て、家の中でノマドする晩年のドゥルーズに憧憬を持ちつつも、古典や芸術といった次元自体が抹殺されていくように見える昨今の情況と闘っていく必要があります。

今日はセミナー

いってきます。

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       第二十四回 哲学/倫理学セミナーのご案内

 思考のラディカリテートを、単に表面的なアクチュアリテートの
 みを追い求めることなく、その歴史の〈深さ〉に探り当てていこう、
 そのような趣旨で立ち上がりました「哲学/倫理学セミナー」も、
 下記の通り、第二十四回目を開催する運びとなりました。引き続き、
 東京大学倫理学科の熊野純彦先生をお迎えして、皆様と議論を深め
 ていきたいと思っております。ご参加をお待ちしております。


            記 

  第二十四回例会 平成17年5月28日(土)
               於 文京区区民センター 3-C会議室
        (http://pe-seminar.hp.infoseek.co.jp/map.html
                  14時から16時50分まで     
             
発表「シェリングと悪」
                    三重野 清顕

     悪はなぜ、そしていかなる仕方においてあるのか。「哲学
    と宗教(1803)」以来、シェリングによって自由と悪の問題
    が中心的に扱われるようになる。自由においてこそ悪の実在
    性が端的に要求されるのであるが、シェリングはその根源を
    経験的な時間性を超越した、それでもなおひとつの時間性の
    うちに見出すことになった。こうしてシェリングは「自由論」
    から「世界の諸世代」にかけて、時間の外なる「過去」「未
    来」をめぐる歴史哲学の構想へと向かったのであった。本稿
    ではこうした自由、悪の時間性をめぐる基本的な枠組みを明
    らかにすることを目指している。  
 
    主要参考文献
     シェリング
     「自由論」(岩波文庫あるいは中公「世界の名著」に邦訳あり)
     「シュトゥットガルト私講義」
     「世界の諸世代」(シュレーター版全集第3巻及び遺稿集に所収)
     カント
     「たんなる理性の限界内の宗教」
                         以上

なお、お手数ではございますが、会場の手配の都合がありますので、
第二十四回研究会に出席いただける場合には、ご一報いただければ幸
いです。


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 第二十五回例会 平成17年6月25日(土)
              於 東京文化会館 中会議室2
          (http://www.t-bunka.jp/around/around.htm
                  14時から16時50分まで
    発表 「悪と超越(仮)」
                          中 真生

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哲学/倫理学セミナー
           (http://pe-seminar.hp.infoseek.co.jp/

論文準備中

なんかすっかりモードが変わってしまって、なかなかブログの方が更新できてませんが、リベラリズムとか経済とか、ここで話題になった論点について、論文をぼちぼち書いてます。なんとなく、きちんと書くのと、ブログでのモードが、うまく両立できないのは、どんなもんなんでしょうね。もちろん、ここでの話はいろんな意味で「刺激」になっていると思いますけれども、一連の「対話」も収束した感もありますし、論文で書く内容を、ここに載っけても、と思ってしまいます。まあ、当たり前といえば当たり前でしょうか。

とはいえ、「経済学批判」ということではじめた仕事ですが、いろいろとやっているうちに、やはりその問題のひとつの根は、個を基本としてとらえて疑うことを知らない人々の思考の枠組みにありそうということがわかってきたので、そうした論点も含めてもっと簡単に批判できるかなと思っていたものを、もう少し個別的な論点に絞って、ひとつひとつ論じていった方がいいような気がしてきました。聞き飽きた「電波」という言葉を、軽々しく使われないようにするためにも、ですね(笑)。

なので、結局、まわりまわって、これまで自分の領域とは決定的に区別してきた自分の業界の領域、つまり、「経済と倫理」みたいなものを論じることからはじめることになりそう。ロールズとかセンとか、70年代以降、それまでの思想の流れとプッツリと切れたところから(少なくとも、倫理学の歴史を「カント義務論」と「功利主義」の二つの、ないしそれに加えたとしても数個のアプローチに還元してしまうようなところから)はじまり、冷戦構造の崩壊とともに、手のつけられない「隆盛」をみているものを、それまでの思想史の上に積み上げられてきた思考と接続するところからはじめる必要があるのではないかと。経済学に対する批判的な論点も、そこから出てくると思います。

しかし、資本主義の健忘症はひどいもので、そうやって、方法的にでも、個人主義的なところからはじめる人たちの話を聞いていると、ある意味すでにヘーゲルなどに出ていた論点を、なんでそう簡単に無視できるのか、不思議で仕方ない。そうした論点も、ある種の哲学の訓練を受けている人だったらおそらく誰でも気づくようなことで、僕などがわざわざ指摘するまでもないことなはずなのですが、そんな簡単な批判でさえきちんとなされなくなっているのは、学問の棲み分けのせいなのか、政治のちからに学問の誠実性までも奪われてしまっているということなのか、あるいは結局、そんな簡単な論点も、ただ言葉が「流布」しただけで、団塊の世代の腰の軽さに端的に象徴されるように、ひとびとの思考の基底をなすまでにはいたっていなかったということなのか。。。とにかく、いい機会なので、この機に、そうした疑問を率直に問うてみたいと思っています。まだ間に合えば(?、大丈夫だったっけ)、今年の倫理学会ででも、発表させてもらおうかな。。おじさんたちが聞いてくれればよいのですが。

会田誠論議(いいわけ風)

とある読書会の席上、「会田誠がいい」とうっかり漏らしてしまったために、とりわけ女性陣から大批判を浴びる。今風のチョーかわいい女子高生のイコンの手足を切り、首輪で繋ぎながらともに月を眺める。こうした会田誠の絵が、嫌悪すべき情感を多分に引き起こすものであることは僕としても肯じえないわけではない。それが、村上隆などにもつながる現代オタク特有の偏った美意識に繋げられるというのもそのとおりであろう。しかし、総攻撃に近いかたちでの苦しい状況で、辿々しく会田誠弁明を続けているうちに、彼の何が「よい」のかについて、はからずも少しは分明になってきたので、一応メモ。ただし、これも世の「識者」の批判は免れないとは思う。それでも「倫理学者」か、みたいな声がすでに傍らに聞こえてくるのではありますが、とりあえず。

さて、会田誠のよさとは何か。それは、人格をともなった、いわゆる「善」と同次元に位置する「美」と、それを全く欠いたところに位置づけられる「美」の次元を提示したところにある、といいたい。つまり、「人造人間ミミちゃん」シリーズなどにみられるような美少女のイコンは、「人-間」という枠組みの外側、あるいは少なくとも境界において外側への通路を開くものとしてあるのであって、「ミミちゃん」になんらかの「人格」を読み込んで、それが否定されているように感じると受け取るのは、会田誠アイロニーの中にすでに組み込まれた反応でしかないのではないか、ということだ。つまり、あえて大仰にいうならば、会田誠の作品は、「人格」にもとづく「人-間」システムの外部にある「現実界」を、強烈なプレサンスによって提示する(この「提示」の仕方自体が、ある種の象徴体系に依存した倒錯なのではないかという点については、なお考える余地があるとしても)ことによって、「人-間」システムの内部に住まうものの安定を脅かしてみせる、ということに意義を持っているのではないかということだ。おそらく、そこでは、美少女を自己の領域に飼い慣らし、自己欲求のためだけに奉仕させるといったような権力の構造が問題になっているのではない。それゆえ、倒錯者たちに誤って歓迎されるという事態は、会田誠の作品にとっても不幸なことだろうと思う。しかし、彼の作品は、自己のベトベトした領域の中に閉じこめて密かな非道徳を味わうといったような、オナニー的な快楽に還元されるものではなく、そのプレサンスにおいて、そうした領域を、単なる個人の嫌らしい妄想としてではなく、「社会」に位置付くことのない「現実」として、白日のもとにさらけ出すことに意味をもつのではないだろうか。もちろん、こうした「現実界」の提示とは、ある意味において芸術一般がその生業としているものであると思うし、それに対する「戦略」が果たしてあのような直截なものでいいのか、という点は、それこそ「倫理的な問題」として残る。それゆえ、過度に入れ込んだ記述するをするのは、かなりリスクが高いと思うのだけれども、しかし、もしも、彼に対する過度な拒否反応が、人間性みたいなものに立脚しているものであるとするならば、そうした「良識」から芸術の領域を守っておくのは、とりあえず必要なのではないかと思った。

「なんちゃってリベラリズム」批判(1)

昨日のエントリの続きでもありますが、やっぱり昨今のリベラリズムは、開き直りもほどがあるでしょ、ということで、まずは典型的なものから。

責任と正義―リベラリズムの居場所

責任と正義―リベラリズムの居場所

一時期話題になった本ですし、おそらくは最近ここにくるようになった社会学系の人たちには内容を紹介する必要などないでしょうけれども、そうではない人も一応いるので書いておきますと、この本は、いわゆる「Why be moral?」といわれる問題系、サカキバラやら何やらで例の「14才」がキーワードだった前世紀末に流行った事柄に対して、5、6年の間、ポスト・モダンやら自由主義やらのはざまで逡巡した後、極めて大庭さん的な文体と思考様式を踏襲しつつ、アッケラカンと(註:大庭=北田風に)、「リベラル派宣言」してしまうもの。すでに紹介(事実言明?)に偏った価値判断を含ませてしまってますが、実際のところは、かなり率直かつ平明に論を展開しており、いいところも悪いところもすべてその通りと開き直って進められる話ぶりは好感がもてるし、分かり切っていることを何もそんなに冗長に書き連ねなくてもと思わされながらも、しかし、文体の師匠(?)であるところの大庭さんが時に勢いに駆られて論理をすっ飛ばしてしまうようなところも、北田氏においてはかなり抑制されており、ところどころ論理に全く関係なく挿入される野次的な言葉遣いもむしろ可愛い気のある印象となっている。「倫理」の問題を、ポストモダン思想家にありがちな「口ごもりの美学」に敢然と立ち向かいながら、極めて散文的な言葉を紡いでいく仕方が、文学も哲学も神も仏も死んでしまった極めて「社会学帝国主義」な現代において、快く受け止められることは十分に理解できますね。

まあ、しかし、北田氏が自分でかなり明確に意識しているように、そうした「ささやかなリベラル」という、「次善」の選択は、いろいろなものを切り捨てたところ(彼のいう「制度的な他者」とか強い「規範的な他者」とか)に成立するもので、そうした他者に対しては「いい加減リベラル派に与すればいいのにねー」みたいな態度で待ち続けるだけでは、単に現状の社会と、そこでの直観(北田氏はだいぶこれを信用しているみたいだけれど、そんなんで大丈夫か?)に安寧しているだけで、実際的な解決を与えることはできないでしょう。そうしたことは、おそらくいなば氏と同じで、出自の影響もあるのだろうけど、自分の畑(社会学畑)で支配的な言説に目配りするだけで、思想的な次元を明らかに低く見積もりすぎだといわざるをえない。早く探求を打ち切って、手っ取り早い「解決
を得ることが最も重要なことなのだろうか。確かに、デリダの正義論とかレヴィナス的な正義論を、高橋哲哉的な解説で理解してしまった気にさせてしまう日本の支配的言説の情況はよくないと思うし、現代思想が気のいい左翼的なものに絡め取られている現状は情けない。しかし、だからといって早々にあきらめて「開き直る」という態度は、政治家や一般読者ならまだしも、学者としてはどうなのでしょうか。

フェミニズムについて、リベラルの向こうへ

少し前のものでなんですが、朝日の夕刊に吉澤夏子さんがA・ドゥオーキンについて書いていた記事がありました。すべての性関係は強姦であると主張し、最近ではその過激さにおいて槍玉にあげられることが多くなったドゥオーキンを、その死に臨んで歴史的に位置づけ、追悼するというものだったかと思うのですが、吉澤さんがその意義を、「世界をひっくり返して裏側から見る」ことに帰していたことに強い印象を受けました。社会において自明とされている事柄を、そのままに受け入ることなく、その構造的な位置づけを疑い、政治的にひっくり返そうとするという、ある意味において、「哲学」がその営みとするべきことに、ラディカルなフェミニズムの意義を見出すという吉澤さんの筆致に、「なるほど」と思わされたからです。

しかし、−−これも実のところ『差異のエチカ』などでの最近の吉澤さんが主張するところでもあるかと思うのですが−−やはり、フェミニズムが、そうした「問い直し」に加えて、新たな「社会的構造」を要求するとき、「女性性」を排除して完全にパブリックな次元を持ってくることを提案するならば、違和感を禁じ得ません。このブログでも折々でふれているように、「パブリック」という原則を参照点とすること自体、「自明なこと」ではありえないし、戦略的に、あるいは「方法的」にそこをよりどころにするということもある種の開き直りにしか見えないのですが、そうした立場の取りようだけでなく、単純に経験の次元としても、そうしたやり方は、事実的な誤認を含むことになると思われるのです。

ある種、個人の主体性が穿たれているような状況というものは、「女性性」と名付けずともありうるし、そうした経験の次元の存在自体は否定できないでしょう。例えば、僕はセックス、ジェンダーともに「男」で、政治的な意味では「主体性」を維持しやすい立場にあると思いますが、それでもごく限定的な場面において、いわゆる「メイル・ゲイズ」と呼ばれる眼差しに出くわすことがある。具体的な社会構造に組み込まれていない関係であるはずにもかかわらず、突如として振りかけられるそれは、制度的な関係の距離を一瞬にして無化し、異他的なもののまま親密性の次元へと土足で踏み込む点において、確かに、端的な「暴力」として立ち現れるといわざるをえません。そこにおいては、「私」は、パブリックな次元において他者と相対するときのようなものではありえず、「私」の同一性はいわば内側から穿たれて、眼差しをなげかけるものとの絶対的な近さの次元に、自らの意志とは全く無関係に、引き込まれる。そこにもし、精神分析的な意味での「父なるもの」あるいは、ある種の「男性性」が含まれているとするならば、自己の主体性は眼差しを投げるものの方に委ねられ、全く抵抗することのできないままに、そして、制度的にその暴力を批判する起点をもちえないままに、いわゆる「女性」であることを余儀なくされてしまう。もちろん、僕は制度的に「男性」であり、こうした「暴力」に対してある程度すでに保護されている身分ではあると思います。あらゆる場面でそのような「女性性」を強いられるわけではない。それゆえに、構造的に女性性を強いるようなメディア装置があるとすれば、それは批判されなければならないと思います。しかしながら、だからといって、こうした経験を語ることが「セックス=女性」であるひとの特権であるわけではない。少なくとも、そうした経験の次元は、生物学的な規定にかかわらず、いわば普遍的な構造として、存在するように思えるわけです。そして、それを「悪」であるということは、少なくとも「性愛」の一般的な構造を叙述しきってからでなければいいきれないし、おそらくは不可能であるように思われます。

そうした、その存在を否定できない経験の位相を、パブリックな権利を要求するという名目のために隠蔽し、すべてが政治的な次元にあると主張するならば、そうした政治的な運動は、目的のために経験される事実をゆがめる、「扇動」にすぎないことになってしまうでしょう。そうした、経験に基づかない過度な権利要求は、折角なされたはずの「自明性」への疑義も無効にし、今日のフェミニズムが経験しているように、いらぬ反動も招くことになる。それは、政治的な運動を推進することにおいても障害となるはずです。こうした事態においてこそ、「どちらかといえばリベラル」というのではなしに、しっかりと経験の構造を見据えた議論をなすべきではないのでしょうか。

芸術の宗教化

先日のゴッホのエントリで、取り上げそこなってしまいましたが、ゴッホで最近話題の本といえば、ブルデューんとこの弟子筋にあたる「芸術社会学」者、ナタリー・エニックの本ですね。

ゴッホはなぜゴッホになったか―芸術の社会学的考察

ゴッホはなぜゴッホになったか―芸術の社会学的考察

ひとりの芸術家の神話化の過程が、これでもかというぐらいに聖人伝の類型に重ねられ、現代における芸術の宗教性について、大きな示唆を与えるものになっている。ところどころ文章が大仰だったりする嫌いもありましたが、さすがに頭のよいひとらしく、ゴッホという芸術家にまつわる言説を、マグダラのマリアを典型とする「聖性」の図式へと当てはめていく手腕は、読み物として完璧な面白さがありました。いわく、生前の、たとえばよく絵が鶏小屋の扉に使われていたとかいわれる、「無理解」は、彼の芸術家歴の短さから考えればそれほど不思議ではなく、実際には専門的な批評家、とりわけ新しい芸術を打ち立てて名を挙げようと努めていた批評家には生前から絶賛する論文もあったわけで、死後、ほどなく評判になることを考えればそれほど「遅く」はない。しかし、そのわずかながらの「遅さ」が強調されることで、認められないままに死んだゴッホの聖性が強化され、狂気が霊性に、耳の切断が自己犠牲に昇華され、ついに公衆の「無理解」は、芸術的な趣味の領域というよりも、むしろ、「倫理」的な領域のものに足を踏み入れることになる。すなわち、「『社会』は、遅れているというそのことによって創造者に対して過ちを侵していることにな」(244頁)り、その贖罪のために、人々は『ひまわり』に莫大な値が付け、作品を巡礼することになるというのである。

こうした図式化が、あまりにも見事に行われるため、この本が、多大な説得力をもつことは確かである。だが、しかし、これによってすべての芸術現象がうまく説明されたかのように考えることはやはり性急だろう。わかった顔をした人々が、これによって芸術を理解したように振る舞い、例えばゴッホ展に「集う」ことを自らのエリート性を損ねる行為として毛嫌いするようになるとすれば、そしてそのことで、あるいは少数に過ぎないかもしれないが少しは落ち着いてゴッホがみれるようになれば、僕としてはありがたいことかもしれない。