いまさらホリエモン

最近の一連の民主党の騒ぎには、底の浅さに嫌になってしまいますが、それはおいておいて、今日は、いまさらホリエモン、です。

例の「金で買えないものはない」という発言ですけれど、特捜に人事を刷新してまで包囲網をはらせた(「額に汗して働くひとの努力を無意味にしない」)考え方の射程を、考えたいと思います。

貨幣が貨幣として交換価値を持ち、他のあらゆる価値を特権的に表象するものとして位置づけられるというホリエモンの考え方については、もちろん、経済至上主義あるいは市場原理主義につながるものとして、「人間」に対するある種の偏った見方である、というように位置づけるのが、特捜の「労働価値説」によって巻き返しをはかられた今になっては、普通のことかもしれません。が、しかし、そうした通俗的ヒューマニズムの枠組みをはずしてみれば、彼がいっていることは、あながち、といか、真に今の社会の現実を表していると思われます。

というのも、人々の生活基盤が、テーラー主義、ないし、テーラー・フォード主義にすでにすっかりと取り込まれてしまった今日において、「価値」とは、個人の内部における「熟練」から生み出されるものではなく(それはどこまでも「私的」なものに切り詰められる)、一元的な貨幣の流れの中での配分によって決定されるものになっているからです。彼の「虚業」は、現実における生産を欠いていたからといって、なんらリアリティを持たないものではなく、むしろ、貨幣の流れに棹さしていたことにおいて、彼はリアルな「価値」を生み出す地点に厳然と身をおいていたというべきです。そこにおいては、すべての価値は、資本主義のシステムに繰り入れられている限りにおいて、原理的に貨幣によって表象されるべきものであり、その外部など最初から存在しないのはこれ以上明白なことはない事実であるわけですね。

それゆえ、彼の発言から考えるべき問題とは、こうした「貨幣一神教」のシステムの中で、あるいは最近の小泉義之氏の論考の言葉を借りれば、この閉じられた世界の中で、いかにしてあらためて「価値」を「価値づける」ことが可能か、ということになるでしょう。あるいは、デリダ的に、純粋な贈与はいかにして可能かといってもよいかもしれません。
レギュラシオン派のアグリエッタがいうように(一時期の流行は見る影もないですけれど、それでもなお考えるべき問題だと思われます)、「所有とは存在の換喩」であり、「交換」とは、とりわけ集権化によって統一的なシステムが約束されていない状況においては、「私的な領域」と、その全き「他者」との間の、価値づけの闘争であると考えてみることにします。そうした、いわば、経済学における現象学的還元のような操作を施してみるとき、そこでの「交換」とは、常に「私」に止まる「同」が、一瞬の間「他」に開かれ、自らのうちに差異を含みつつ、また「同」へと回帰することと考えることができるでしょう。そこでは、語の本来の意味での「エコノミー」が生起しています。つまり、「私=家(オイコス)」が、他との関係を持ちつつ、自らを維持するというわけです。もちろん、未だ交換の外部において価値を価値づける貨幣は、そこではいまだ機能しておらず、「交換」は、むしろ、「同」と「他」の間の絶対的な非対称の中で、つまりは、交換の両極における絶対的な非対称の中で、「同」を養い、「同」の存在を基礎づけるような作業であるといえるでしょう。「同」としての「私」を「交換」へと誘うのは「他」への渇望であり、「交換」によって達成されるのは、「同」がなお「同」でありつつ「他」との間に関係を取り結ぶことだというわけですね。

つまり、「同」が「同」であるために、「他」とのエコノミー的な関係が本質的に必要とされるというわけですが、問題は、資本主義的な生産様式において、あるいはもう少し分節化してその中でもフォーディズム以後台頭しつつある新たな調整様式において(物凄く軽い意味で、仮にホリエモニズムとでも呼びましょうか)、そうした「同」と「他」の関係性が、一元的に価値づけられる現状にあるというべきでしょう。そこでは、「比類なき(はずの)私」が「他」と関係するのは、共にリベラルな基準を守るという、外的な価値尺度による他はなく、「多様性」と「尊厳」をおもちゃとして与えられた、未熟で底の浅い「私」が、互いを監視しつつ、望ましからざる「他」との関係を築き合うだけの社会しか成立しないことになってしまいます。その中で、「比類なき私」が、他の「バカども」をさしおいてやるべきことといえば、いかにして「自分」が社会を管理する側へまわるかということであり、そうして「自由・平等」な社会に、優越とそれに基づく経済的配分を獲得するかということになります。そうした「比類なき私」たちの「エリート」志向に基づいて、一元化した価値基準が巧妙に管理・維持され、それによってもたらされる果実には決して与ることのない人々においてさえ、システムの維持が志向されることになるわけですね。そうした構造の中で、いかにして価値を価値づけていくことができるのか。語の本来の意味での「エコノミー」を考える必要がそこにはあると思われます。

そういったわけで(?、というか少なくても僕の中の問題意識としては)、今年の「哲学/倫理学セミナー」では、「思考のエコノミー」と題したワークショップをやろうかという話になりました(昨日)。うまくいけば一昨年のように、10月ごろ、都内某所でやることになると思いますので、お暇な方は是非いらしてください。提題者も募集中です。