リベラリズムの身体

前に話題にしていたように、次回の倫理学会で、このブログで争点になったところを発表しようとしていたのですが、無事評議会を通りました。なので、10月の8日か9日に、岡山大に行って発表してきます。江戸のかたきを長崎で、と思われる向きもあるでしょうけれど、内容も内容なのでとりあえずのところはよかったと思ってます。そのときの反応や編者のご意向によるところも大きいですが、その論文を単行本での論文集に載せてもらおうという計画も同時にあるので、もし興味をもってくれるひとがいれば、そちらの方で確認できるかとも思います。

というわけで、一応、学会の「大会発表報告集」なるものに掲載する文面をコピペしておきます。

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リベラリズムの身体――方法論的個人主義批判にむけて

今日、様々な領域で、積極的に「倫理」を語ることが試みられている。ロールズにはじまり、センへと受け継がれる規範倫理学の流れも、その試みのひとつであるといえよう。とりわけ、グローバル化する経済の中で、市場原理における財の配分が著しい不均衡を生み、厚生経済学など経済学内部での是正の試みが、必ずしも十分に功を奏していない情況においては、いかにして社会に「公正としての正義」をもたらすかが重要な問題となる。しかし、「価値」が諸個人のうちに多様化し、「よしあし」を一元的に規定しえない現代において、いかにして「正義」を語ることができるのか。そこに、「倫理」を語る上での「方法」の問題が生じることになる。

 塩野谷が指摘するように、規範倫理学が「正義」を語る際に用いる「アプローチ」は、新古典派経済学に典型的みられるような「道具主義」的なものとみることができる[塩野谷2002,pp.77f.]。ロールズが提示した「原理」もまた、渡辺幹雄の詳細な跡づけに見られるように、いわゆる「道徳人類学」批判や「仕立て」の疑惑との折衝を経て、とりわけ『政治的リベラリズム』における「公正な多元主義」の主張以降、「政治的なものであって、形而上学的なものではない」といわれるようになる。正義の「原理」といわれるものも、すべての人間に自然的に備わっているようなものであるよりもむしろ、そのように規定することによって、多元的な価値の中に共通の社会性を構築しようとする、ひとつの「方法」であるといわれることになるのである。あるいはまた、近年の「リベラリズム」の再評価の機運もまた、例えば北田が描き出す「仮想人類学的」な「社会契約説」に見られるように、個々人に内属する合理性を積極的に述べ立てるものであるよりもむしろ、「契約」によって仮想的に打ち立てられるリベラルな社会システム自体に、「道具」的な意味を見ようとするものだったといえよう[cf.北田]。価値の多様化した社会において、何らかの普遍化可能な規範を打ち立てようとする試みは、こうした方法論的なアプローチをとることになるのである。

 何らかの超越的な根拠を打ち立て「人間」なら誰にも当てはまって当然の「倫理」を述べ立てることが、端的な暴力でしかありえないことが周知された現代において、「倫理」を語ることが、まずは「方法」の問題として提起されるということは、まずは留意しなければならない事柄である。しかしながら、そうした「方法」が、やはりひとつの「方法」である以上、常に批判的に検討されるべきものであることも、同時に認識しなければならない。単にひとびとの間で道具的に「取り決め」られたものであったとしても、それがひとたび「原理」として社会的に規定されるや否や各人を実的に規定するものとなりうる。あるひとつの「方法」を採用することによって、他のありうべき存在の次元との対話が「打ち切られる」[cf.北田,159]とするならば、そのような政治的な力を帯びた「方法」は、民主主義の名を借りた「暴力」として、批判されなければならない。本発表は、そのような問題意識に基づいて、今日の規範倫理学が用いる「方法」を批判的に検討することを目指す試みとなる。とりわけ、規範倫理学においてしばしば問われることのないまま前提とされていた個人主義的な基盤を、「個体の生成」を論じるドゥルーズ=ガタリの論理を用いて、問い直していきたい。

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字数が限られているから書けませんでしたけど、もちろん、ここでの「個」の批判は、「共同体主義」といわれる人々の話とは全然違いますからね。

よろしくどうぞ。