フェミニズムについて、リベラルの向こうへ

少し前のものでなんですが、朝日の夕刊に吉澤夏子さんがA・ドゥオーキンについて書いていた記事がありました。すべての性関係は強姦であると主張し、最近ではその過激さにおいて槍玉にあげられることが多くなったドゥオーキンを、その死に臨んで歴史的に位置づけ、追悼するというものだったかと思うのですが、吉澤さんがその意義を、「世界をひっくり返して裏側から見る」ことに帰していたことに強い印象を受けました。社会において自明とされている事柄を、そのままに受け入ることなく、その構造的な位置づけを疑い、政治的にひっくり返そうとするという、ある意味において、「哲学」がその営みとするべきことに、ラディカルなフェミニズムの意義を見出すという吉澤さんの筆致に、「なるほど」と思わされたからです。

しかし、−−これも実のところ『差異のエチカ』などでの最近の吉澤さんが主張するところでもあるかと思うのですが−−やはり、フェミニズムが、そうした「問い直し」に加えて、新たな「社会的構造」を要求するとき、「女性性」を排除して完全にパブリックな次元を持ってくることを提案するならば、違和感を禁じ得ません。このブログでも折々でふれているように、「パブリック」という原則を参照点とすること自体、「自明なこと」ではありえないし、戦略的に、あるいは「方法的」にそこをよりどころにするということもある種の開き直りにしか見えないのですが、そうした立場の取りようだけでなく、単純に経験の次元としても、そうしたやり方は、事実的な誤認を含むことになると思われるのです。

ある種、個人の主体性が穿たれているような状況というものは、「女性性」と名付けずともありうるし、そうした経験の次元の存在自体は否定できないでしょう。例えば、僕はセックス、ジェンダーともに「男」で、政治的な意味では「主体性」を維持しやすい立場にあると思いますが、それでもごく限定的な場面において、いわゆる「メイル・ゲイズ」と呼ばれる眼差しに出くわすことがある。具体的な社会構造に組み込まれていない関係であるはずにもかかわらず、突如として振りかけられるそれは、制度的な関係の距離を一瞬にして無化し、異他的なもののまま親密性の次元へと土足で踏み込む点において、確かに、端的な「暴力」として立ち現れるといわざるをえません。そこにおいては、「私」は、パブリックな次元において他者と相対するときのようなものではありえず、「私」の同一性はいわば内側から穿たれて、眼差しをなげかけるものとの絶対的な近さの次元に、自らの意志とは全く無関係に、引き込まれる。そこにもし、精神分析的な意味での「父なるもの」あるいは、ある種の「男性性」が含まれているとするならば、自己の主体性は眼差しを投げるものの方に委ねられ、全く抵抗することのできないままに、そして、制度的にその暴力を批判する起点をもちえないままに、いわゆる「女性」であることを余儀なくされてしまう。もちろん、僕は制度的に「男性」であり、こうした「暴力」に対してある程度すでに保護されている身分ではあると思います。あらゆる場面でそのような「女性性」を強いられるわけではない。それゆえに、構造的に女性性を強いるようなメディア装置があるとすれば、それは批判されなければならないと思います。しかしながら、だからといって、こうした経験を語ることが「セックス=女性」であるひとの特権であるわけではない。少なくとも、そうした経験の次元は、生物学的な規定にかかわらず、いわば普遍的な構造として、存在するように思えるわけです。そして、それを「悪」であるということは、少なくとも「性愛」の一般的な構造を叙述しきってからでなければいいきれないし、おそらくは不可能であるように思われます。

そうした、その存在を否定できない経験の位相を、パブリックな権利を要求するという名目のために隠蔽し、すべてが政治的な次元にあると主張するならば、そうした政治的な運動は、目的のために経験される事実をゆがめる、「扇動」にすぎないことになってしまうでしょう。そうした、経験に基づかない過度な権利要求は、折角なされたはずの「自明性」への疑義も無効にし、今日のフェミニズムが経験しているように、いらぬ反動も招くことになる。それは、政治的な運動を推進することにおいても障害となるはずです。こうした事態においてこそ、「どちらかといえばリベラル」というのではなしに、しっかりと経験の構造を見据えた議論をなすべきではないのでしょうか。