存在証明=懐旧
かなり間が空いてしまいました。
怒濤のような後期の授業も終わり、やっと一息というところですが、一応ここらで存在証明しておかないと自然消滅してしまいそうです(すでにそうなっているともいえる)。
あまりにもご無沙汰なので、我ながら意味のわからないブログの配色ともども、すでに懐かしいという感じの方が強いですが、存在とは望郷であるというヒトもいることだし(意味が違うが。というか、そもそも望郷と懐旧は違う感覚ですか)、潜在空間の主体をもう一度立ち上げてみたいと思います。
といいますか、早い話、活動の宣伝です。
倫理学会での「リベラリズム批判」は、それなりに反応してもらえてうれしかったのですが、今回はその続きというか、もう少し中身のある話にするとともに、単なる批判としてではなく、ドゥルーズ=ガタリ解釈の文脈でポジティブな意味をもつような展開ができればと思っております。
お暇な方はどうぞ。
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思考のラディカリテートを、単に表面的なアクチュアリテートの
みを追い求めることなく、その歴史の〈深さ〉に探り当てていこう、
そのような趣旨で立ち上がりました「哲学/倫理学セミナー」も、
下記の通り、第三十目を開催する運びとなりました。引き続き、
東京大学倫理学科の熊野純彦先生をお迎えして、皆様と議論を深め
ていきたいと思っております。ご参加をお待ちしております。
記
第三十回例会 平成18年1月28日(土)
於 東京文化会館 中会議室2
(http://www.t-bunka.jp/around/around.htm)
14時から16時50分まで
発表「潜在する〈剰余〉
――ドゥルーズ=ガタリにおける「経済学批判」の可能性」
荒谷 大輔
コードがコードとして機能するとき、「相応」なものが「相応」
なものとして位置づけられ、一定の秩序が生まれる。そうして構築
される一定の秩序に対して、それを幾何学的に「等価」と形容する
ことができるかもしれない。そして〈剰余〉とは、さしあたり、そ
のようなコードの幾何学的等価に還元し得ず、その限りおいてコー
ドの体系に対して常に潜在的でありつづけるものを指し示すことに
なる。マルクスの「交換」における剰余の問題を引き継ぎながらド
ゥルーズ=ガタリが主題としたのは、まずはそうしたコードの剰余
価値についてであった。本稿は、マルクスが『経済学批判要綱』で
展開した「資本主義に先行する社会態」についての議論を踏まえな
がら、ドゥルーズ=ガタリにおける「経済学批判」の契機を探る試
みとなる。
参考文献
『アンチ・オイディプス』(河出書房新社)
『千のプラトー』(河出書房新社)
以上
なお、お手数ではございますが、会場の手配の都合がありますので、
第三十研究会に出席いただける場合には、
ご一報(pe-seminar@mail.goo.ne.jp)いただければ幸いです。
■(予告)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
第三十一回例会 平成18年3月25日(土)
場所 未定
14時から16時50分まで
発表「皮膚の論理―レヴィナスの場合(仮)」
横地 徳広
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