芸術の宗教化

先日のゴッホのエントリで、取り上げそこなってしまいましたが、ゴッホで最近話題の本といえば、ブルデューんとこの弟子筋にあたる「芸術社会学」者、ナタリー・エニックの本ですね。

ゴッホはなぜゴッホになったか―芸術の社会学的考察

ゴッホはなぜゴッホになったか―芸術の社会学的考察

ひとりの芸術家の神話化の過程が、これでもかというぐらいに聖人伝の類型に重ねられ、現代における芸術の宗教性について、大きな示唆を与えるものになっている。ところどころ文章が大仰だったりする嫌いもありましたが、さすがに頭のよいひとらしく、ゴッホという芸術家にまつわる言説を、マグダラのマリアを典型とする「聖性」の図式へと当てはめていく手腕は、読み物として完璧な面白さがありました。いわく、生前の、たとえばよく絵が鶏小屋の扉に使われていたとかいわれる、「無理解」は、彼の芸術家歴の短さから考えればそれほど不思議ではなく、実際には専門的な批評家、とりわけ新しい芸術を打ち立てて名を挙げようと努めていた批評家には生前から絶賛する論文もあったわけで、死後、ほどなく評判になることを考えればそれほど「遅く」はない。しかし、そのわずかながらの「遅さ」が強調されることで、認められないままに死んだゴッホの聖性が強化され、狂気が霊性に、耳の切断が自己犠牲に昇華され、ついに公衆の「無理解」は、芸術的な趣味の領域というよりも、むしろ、「倫理」的な領域のものに足を踏み入れることになる。すなわち、「『社会』は、遅れているというそのことによって創造者に対して過ちを侵していることにな」(244頁)り、その贖罪のために、人々は『ひまわり』に莫大な値が付け、作品を巡礼することになるというのである。

こうした図式化が、あまりにも見事に行われるため、この本が、多大な説得力をもつことは確かである。だが、しかし、これによってすべての芸術現象がうまく説明されたかのように考えることはやはり性急だろう。わかった顔をした人々が、これによって芸術を理解したように振る舞い、例えばゴッホ展に「集う」ことを自らのエリート性を損ねる行為として毛嫌いするようになるとすれば、そしてそのことで、あるいは少数に過ぎないかもしれないが少しは落ち着いてゴッホがみれるようになれば、僕としてはありがたいことかもしれない。