「なんちゃってリベラリズム」批判(1)

昨日のエントリの続きでもありますが、やっぱり昨今のリベラリズムは、開き直りもほどがあるでしょ、ということで、まずは典型的なものから。

責任と正義―リベラリズムの居場所

責任と正義―リベラリズムの居場所

一時期話題になった本ですし、おそらくは最近ここにくるようになった社会学系の人たちには内容を紹介する必要などないでしょうけれども、そうではない人も一応いるので書いておきますと、この本は、いわゆる「Why be moral?」といわれる問題系、サカキバラやら何やらで例の「14才」がキーワードだった前世紀末に流行った事柄に対して、5、6年の間、ポスト・モダンやら自由主義やらのはざまで逡巡した後、極めて大庭さん的な文体と思考様式を踏襲しつつ、アッケラカンと(註:大庭=北田風に)、「リベラル派宣言」してしまうもの。すでに紹介(事実言明?)に偏った価値判断を含ませてしまってますが、実際のところは、かなり率直かつ平明に論を展開しており、いいところも悪いところもすべてその通りと開き直って進められる話ぶりは好感がもてるし、分かり切っていることを何もそんなに冗長に書き連ねなくてもと思わされながらも、しかし、文体の師匠(?)であるところの大庭さんが時に勢いに駆られて論理をすっ飛ばしてしまうようなところも、北田氏においてはかなり抑制されており、ところどころ論理に全く関係なく挿入される野次的な言葉遣いもむしろ可愛い気のある印象となっている。「倫理」の問題を、ポストモダン思想家にありがちな「口ごもりの美学」に敢然と立ち向かいながら、極めて散文的な言葉を紡いでいく仕方が、文学も哲学も神も仏も死んでしまった極めて「社会学帝国主義」な現代において、快く受け止められることは十分に理解できますね。

まあ、しかし、北田氏が自分でかなり明確に意識しているように、そうした「ささやかなリベラル」という、「次善」の選択は、いろいろなものを切り捨てたところ(彼のいう「制度的な他者」とか強い「規範的な他者」とか)に成立するもので、そうした他者に対しては「いい加減リベラル派に与すればいいのにねー」みたいな態度で待ち続けるだけでは、単に現状の社会と、そこでの直観(北田氏はだいぶこれを信用しているみたいだけれど、そんなんで大丈夫か?)に安寧しているだけで、実際的な解決を与えることはできないでしょう。そうしたことは、おそらくいなば氏と同じで、出自の影響もあるのだろうけど、自分の畑(社会学畑)で支配的な言説に目配りするだけで、思想的な次元を明らかに低く見積もりすぎだといわざるをえない。早く探求を打ち切って、手っ取り早い「解決
を得ることが最も重要なことなのだろうか。確かに、デリダの正義論とかレヴィナス的な正義論を、高橋哲哉的な解説で理解してしまった気にさせてしまう日本の支配的言説の情況はよくないと思うし、現代思想が気のいい左翼的なものに絡め取られている現状は情けない。しかし、だからといって早々にあきらめて「開き直る」という態度は、政治家や一般読者ならまだしも、学者としてはどうなのでしょうか。