政治とノンポリ

昨日は早稲田の田口さんとこの研究会。今回は、来月ポーランドで発表するという「哲学と政治」についての現象学的考察(!)について。

媒体性の現象学という新田さんの道具立てを用いて(紹介して?)、「理論/実践」という相互否定的依存性が差異として立ち上がるところを記述する、という筋立てはかなりクリアで、おそらく現象学プロパーのひとだったら「我が意を得たり」と諸手をあげて歓迎するものだと思うのだけれども、それだけに、単に「哲学」の側のモノローグに終わってしまう可能性も強い気がした。

件の発表の聴講者はおそらく現象学者だろうからもちろんこのままで立派な業績になると思いますが、哲学の可能性の問い直しを建前ではなくやろうとする研究会としては、もっと突き抜けたところまで議論してもいいのでは?と実は前回あたりから思っているのですけれど、どうなのでしょう?「認識論的な還元→生活世界へ、さらにそれを不断に批判する理性」という後期フッサールお馴染みの図式は、田口さんがこれまでやってこられたように「理性」を個々人の主体へと限定しないものとするとしてもなお、ある「現象学的視点」の特権性を維持しているわけで、研究会でもいったように、その認識論的な特権的位置こそ、社会科学をやっているひとたちが哲学を見限る契機となっているように思えるわけです。だからこそ、特権的視点を一義的な存在へと回収して、すべての出来事を政治的なものとみなす(フェミニズムの人たちがいう意味とは全く違う意味で、ですが)ところから議論を組み立てるドゥルーズの図式の意義も出てくるわけで、そうしてはじめて単なる観念論に終わらない具体的な話もできると思うのです。

が、そこら辺の話は、それこそ具体的な「実践」としてやっていかなければ、それこそ極端な観念論になってしまう可能性もあるでしょう。古典を読み、映画を見て、家の中でノマドする晩年のドゥルーズに憧憬を持ちつつも、古典や芸術といった次元自体が抹殺されていくように見える昨今の情況と闘っていく必要があります。