論文準備中

なんかすっかりモードが変わってしまって、なかなかブログの方が更新できてませんが、リベラリズムとか経済とか、ここで話題になった論点について、論文をぼちぼち書いてます。なんとなく、きちんと書くのと、ブログでのモードが、うまく両立できないのは、どんなもんなんでしょうね。もちろん、ここでの話はいろんな意味で「刺激」になっていると思いますけれども、一連の「対話」も収束した感もありますし、論文で書く内容を、ここに載っけても、と思ってしまいます。まあ、当たり前といえば当たり前でしょうか。

とはいえ、「経済学批判」ということではじめた仕事ですが、いろいろとやっているうちに、やはりその問題のひとつの根は、個を基本としてとらえて疑うことを知らない人々の思考の枠組みにありそうということがわかってきたので、そうした論点も含めてもっと簡単に批判できるかなと思っていたものを、もう少し個別的な論点に絞って、ひとつひとつ論じていった方がいいような気がしてきました。聞き飽きた「電波」という言葉を、軽々しく使われないようにするためにも、ですね(笑)。

なので、結局、まわりまわって、これまで自分の領域とは決定的に区別してきた自分の業界の領域、つまり、「経済と倫理」みたいなものを論じることからはじめることになりそう。ロールズとかセンとか、70年代以降、それまでの思想の流れとプッツリと切れたところから(少なくとも、倫理学の歴史を「カント義務論」と「功利主義」の二つの、ないしそれに加えたとしても数個のアプローチに還元してしまうようなところから)はじまり、冷戦構造の崩壊とともに、手のつけられない「隆盛」をみているものを、それまでの思想史の上に積み上げられてきた思考と接続するところからはじめる必要があるのではないかと。経済学に対する批判的な論点も、そこから出てくると思います。

しかし、資本主義の健忘症はひどいもので、そうやって、方法的にでも、個人主義的なところからはじめる人たちの話を聞いていると、ある意味すでにヘーゲルなどに出ていた論点を、なんでそう簡単に無視できるのか、不思議で仕方ない。そうした論点も、ある種の哲学の訓練を受けている人だったらおそらく誰でも気づくようなことで、僕などがわざわざ指摘するまでもないことなはずなのですが、そんな簡単な批判でさえきちんとなされなくなっているのは、学問の棲み分けのせいなのか、政治のちからに学問の誠実性までも奪われてしまっているということなのか、あるいは結局、そんな簡単な論点も、ただ言葉が「流布」しただけで、団塊の世代の腰の軽さに端的に象徴されるように、ひとびとの思考の基底をなすまでにはいたっていなかったということなのか。。。とにかく、いい機会なので、この機に、そうした疑問を率直に問うてみたいと思っています。まだ間に合えば(?、大丈夫だったっけ)、今年の倫理学会ででも、発表させてもらおうかな。。おじさんたちが聞いてくれればよいのですが。