会田誠論議(いいわけ風)

とある読書会の席上、「会田誠がいい」とうっかり漏らしてしまったために、とりわけ女性陣から大批判を浴びる。今風のチョーかわいい女子高生のイコンの手足を切り、首輪で繋ぎながらともに月を眺める。こうした会田誠の絵が、嫌悪すべき情感を多分に引き起こすものであることは僕としても肯じえないわけではない。それが、村上隆などにもつながる現代オタク特有の偏った美意識に繋げられるというのもそのとおりであろう。しかし、総攻撃に近いかたちでの苦しい状況で、辿々しく会田誠弁明を続けているうちに、彼の何が「よい」のかについて、はからずも少しは分明になってきたので、一応メモ。ただし、これも世の「識者」の批判は免れないとは思う。それでも「倫理学者」か、みたいな声がすでに傍らに聞こえてくるのではありますが、とりあえず。

さて、会田誠のよさとは何か。それは、人格をともなった、いわゆる「善」と同次元に位置する「美」と、それを全く欠いたところに位置づけられる「美」の次元を提示したところにある、といいたい。つまり、「人造人間ミミちゃん」シリーズなどにみられるような美少女のイコンは、「人-間」という枠組みの外側、あるいは少なくとも境界において外側への通路を開くものとしてあるのであって、「ミミちゃん」になんらかの「人格」を読み込んで、それが否定されているように感じると受け取るのは、会田誠アイロニーの中にすでに組み込まれた反応でしかないのではないか、ということだ。つまり、あえて大仰にいうならば、会田誠の作品は、「人格」にもとづく「人-間」システムの外部にある「現実界」を、強烈なプレサンスによって提示する(この「提示」の仕方自体が、ある種の象徴体系に依存した倒錯なのではないかという点については、なお考える余地があるとしても)ことによって、「人-間」システムの内部に住まうものの安定を脅かしてみせる、ということに意義を持っているのではないかということだ。おそらく、そこでは、美少女を自己の領域に飼い慣らし、自己欲求のためだけに奉仕させるといったような権力の構造が問題になっているのではない。それゆえ、倒錯者たちに誤って歓迎されるという事態は、会田誠の作品にとっても不幸なことだろうと思う。しかし、彼の作品は、自己のベトベトした領域の中に閉じこめて密かな非道徳を味わうといったような、オナニー的な快楽に還元されるものではなく、そのプレサンスにおいて、そうした領域を、単なる個人の嫌らしい妄想としてではなく、「社会」に位置付くことのない「現実」として、白日のもとにさらけ出すことに意味をもつのではないだろうか。もちろん、こうした「現実界」の提示とは、ある意味において芸術一般がその生業としているものであると思うし、それに対する「戦略」が果たしてあのような直截なものでいいのか、という点は、それこそ「倫理的な問題」として残る。それゆえ、過度に入れ込んだ記述するをするのは、かなりリスクが高いと思うのだけれども、しかし、もしも、彼に対する過度な拒否反応が、人間性みたいなものに立脚しているものであるとするならば、そうした「良識」から芸術の領域を守っておくのは、とりあえず必要なのではないかと思った。