ピナ・バウシュ『ネフェス』

僅かにすり鉢上なった舞台の中央から水が沸き出している。とはいえ、これ見よがしなアトラクションとしてではなく、あくまでもひっそりと、数多くの強度的な動きが観客の記憶の奥底を刺激する間に。そこには、無形なままに、そして大いなる沈黙を守りつつ、しかし、誰の目にも明らかなものとして息づく「生命」の力が<存在>している。「生命」などという大仰な言葉を用れば、あるいはひとはロマン主義的な郷愁を思い起こしてしまうかもしれない。だが、ピナ・バウシュにおいては、失われてしまった「旧き良きもの」を遠く望むこととは全く無縁な、現にそこに潜在する圧倒的なまでの力が、静かにそしてゆったりと、たゆたっているだけなのだ。

しかし、ひとつのモチーフを、これほどまでに洗練させることができるのかと感心してしまう。おそらく、誰でもが見出すであろう、日々の細やかな事々を、ピナ・バウシュは、丹念に、そして大胆に、その本質だけを提示する。観るものは、「ワカッテルネ」とつぶやきつつ、なおそれ以上のものを浴びせられて、ただただ脱帽するだけだ。いわば個物が、所詮イデアにはかなわないことを思い知らされる快感。その大いなる実在の感覚は、しかし、なぜか遠い記憶の底にあるものを喚起しつつ、我々の個々のパースペクティブがいかに限定されたものであるかを思い出させるのである。

いやあ、極楽、極楽。

サラリーマン所得のみなし控除

今月下旬の税制調査会の報告で、サラリーマンの「みなし控除額」を引き下げる方向が示される見通しと、今日の朝日に書かれていた。

いわゆる「964(クロヨン)」といわれたサラリーマン、自営業、農家、の所得把握率の格差が、消費税の導入などにより、是正されてきたというのが税調の言い分のようで、朝日の記事を見る限り、その論拠自体には疑問は提示されていないようだった。だが、そこには、経費をみなし額で一括に計上されることと、所得額が把握されることとの間の差異が見落とされているのではないだろうか。

新古典派の経済学が、合理的な「個人」を基本単位として経済を考えるということ自体、様々な問題を含むものだとは思うものの、とりあえずここではそうだ仮定として、しかし、問題は、コースのいうように「法人」としての経済単位をどのように考えるかということ。現在の税制が、「法人」もまたひとつの経済活動の単位として課税の対象とするのはわかる。しかし、だとすれば、その法人からサラリーをもらう人々にもう一度課税するというのは、どのような原理によって説明されるのか。労働者もまたひとつの経済単位として存在するものであるから、その労働力を売って得た賃金は、当然経済活動の課税対象となる。そうした説明は、ある種の説得力をもつものではある。だが、しかし、実際のところ、個々の労働者は、そのような「経済人」とみなされうるような自由な経済活動を許されているものだとはとてもいえない。「専業規定」によって自由であるはずの時間も会社に拘束され、経済主体として当然計上されるべき様々な経費も、お上に「フツー、リーマンだったら経費はこんなもんでしょ」と勝手に決められる。ひとりの「経済人」として課税されるのであれば、なんでそんな「決めつけ」に従わなければならないのか。特別支出控除の枠を広げるとかいうけれど、実際、すべてのサラリーマンが「白色申告」をするほどの「納税者意識」を持ったら、税務署はやぶ蛇でしょう。労働者として「生き続ける」こと自体、「赤字」であるひともいるだろうし。

こうした「原則」に由来する矛盾に対して、知らずにただ言いなりになっている「サラリーマン」たちは、もっと批判的な精神を持つべきではないかと思う。つうか、労働者は、ほんとうに経済合理的な「個人」とみなされていいのか?

伊藤キム『禁色』

@世田パブ。僕が見た中では一番よいキムの作品。舞台の両袖を白い壁で、正面を黒く反射する、ほどよい堅さの素材で囲んだ空間が、照明の強烈な力によって時間を刻んでいく。おそらくはキムはいつものキム、白井はいつもの白井なのだけれども(もちろんそれ自体わるいはずもない)、音楽の的確さも手伝って、いくつか崇高とさえいえるような完璧な瞬間を作り出していた。これぞ総合芸術、といった感じ。冒頭のフリチンも、キムらしいバランスのとり方だと思うが、彼が何らかの「形而上学」をやろうと思えば、ああならざるをえないのだろう。

しかし、『禁色』というのは、本人どこまで真面目なのか、測りかねる部分がありますね。三島由紀夫=舞踏の系譜に連なる出自ながら、その「極北」を引き受けるつもりなどおそらく毛頭なく、「世界の舞踏」をほとんど政治的なカードのごとく使いつつ、奇妙なバランスでやってきたはずのところに、この『禁色』で「自分のルーツを見直す」というのですから。。。この作品がかなり真剣に取り組まれたものであることは随所に見えるものの、その「成功」後のレセプションにおいてさえ、「舞踏バンザイ」という乾杯の音頭が「悪い冗談」にしか響かないというところに、キムの特異な位置づけと、「舞踏」の先行きに関する一抹の不安を感じざるをえませんでした。

以上、いろんなひとにもっとダンスを見てもらいたいので、やはりたまには踊りについても書くことにしようかと思います。論文執筆中、著しく更新頻度も落ちていることですし。。。とはいえ、はずれの多いダンス業界では珍しくおすすめできる作品ですので、興味のあるかたは是非足を運んでみてください。6/11まで。

文献メモ(タウンゼント)

「個 vs.共同体」というお決まりの対立にすぎないかもしれませんが、一応メモ。
誰かこの後の顛末を教えてくらさい。
今週は、伊藤キムの『禁色』がありますね。

  • Townsend, Peter (1985). “A Sociological Approach to the Measurement of Poverty – A Rejoinder to Professor Amartya Sen.” Oxford Economic Papers V37, pp.659-668
  • Sen, Amartya (1985). “A Sociological Approach to the Measurement of Poverty: A Reply to Professor Peter Townsend.” Oxford Economic Papers V37, pp.669-676

There is also a debate on the merits of an absolute conception of poverty between Amartya Sen and Peter Townsend. Sen (1983) argued that an absolutist core is the need "to meet nutritional requirements, to escape avoidable disease, to be sheltered, to be clothed, to be able to travel, to be educated----to live without shame’. Townsend (1985) responded saying that this absolutist core is itself relative to society. Nutritional requirements are dependent on the work roles of people at different points of history and in different cultures. Avoidable disease is dependent upon the level of medical technology. The idea of shelter is relative not just to climate but also to what society uses shelter for. Shelter includes notions of privacy, space to cook, work and play, and highly cultured notions of warmth, humidity and segregation of particular members of the family, as well as different functions of sleep, cooking, washing and excretion.

Finally, multidimensionality of poverty is now well-recognised in the development discourse not just as a measurement issue, but also as a matter of policy concern. To address the capabilities of the poor, in recent years, the focus has also shifted to analysing poverty processes, which yielded new analytical categories such as crisis coping capacity, personal insecurity, social exclusion, and empowerment (Rahman, 2000). In a nutshell it can be said that despite the influence of economic factors, over time the concept of extreme poverty gets attention in the multi dimensional sense in development literature.
(Nasrin Sultana, 'Conceptualising Livelihoods of the Extreme Poor',January 2002)

『思想』6月号

イスラム社会には、なぜ近代資本主義が成立しなかったのか、その答えを、イスラム社会における法人格概念の欠如にみようとする論文。論旨はきわめて明快、というか単線的で、問題の複雑さに比べて、論述があまりにも単純すぎるように思える。見れば、読んでいるのは二次文献だけ。それを形式的に繋いでいっても、読書ノートと推論みたいな域を出ないのではなかろうか。テーマ自体は、面白く、実際に学としてやるにはかなり重いテーマに取り組んでいることには頭が下がるが(というか、このテーマで学振とってるのね。だとすれば上のことは差し引くべきか)、これではNHKのドキュメンタリー番組みたいな感じ(編集術?あ、社会学のひとなのね、首肯。)で、眉に唾つけてみないと駄目。期待したい領域だけに、残念。

たとえば、イスラムに「王の身体@カントロビッチ」みたいな概念がなかったとして、近代資本主義というのは、コースがいうように、ある意味で、そうした企業的なものを原理的に排除するものであったとも他方でいえるわけで(それが方法的なものであるとはいえとりあえず建前として)、そのあたり、二次文献ひとつ挙げてすませるというのはあまりでしょう。あるいはまた、個人的に消費せずに、次なる生産へと禁欲的に資本を投下していく動きというのは、それに時間についての意識が深く関わっているとしても(時間概念の分析も雑すぎ)、自身引いているウェーバーがいっているようにそれが極めてプロテスタント的な特徴であるとすれば、これも集団的身体というよりも、「個」に深く関わるものであるはずです。そのあたり、素人的にも様々に突っ込みうるところに対して、全く無防備であるというのは、どうなのでしょう。

レヴィナス『全体性と無限』岩波文庫近刊予定、らしい。頁付けが決まっているところを見ると、もう印刷にまわっているのだろうか。「解釈学的循環」を巡る言説の「歴史」を、ドロイゼンから適宜古典中世思想の響きを汲み取りつつ、レヴィナスまで辿る。歴史的方法の「理解」の次元から、この「私」をいかにして解き放つのか。実際、そのことが問題だと思う。

  • 他、門脇さん、信原さん等々、東大の先生。

しかし、『思想』は、東大、京大ほか旧帝リレー&手持ちの院生紹介?って感じで、この後も続けていくつもりなのだろうか。実際、そのぐらいのマーケットなのかもしれませんが。とりあえず、「若手」マッピングとしては使えるか。。

統合学術国際研究所

名前がすごい。漢語の文法にも適っているのか疑問ですが、今週の「読書人」でレビューされてたので、気になりました。「複雑系・プリコジン・現象学」と、ある意味「ど真ん中」なので。調べてみたら、2001年に日蓮宗のお寺さんが作った研究所とのこと。うむ。だから「+仏教」だったわけですね。つまり、京都学派か?浜渦さんが何かの義理で、「康邦・野家・貫」の紹介みたいなのをしてる。ウェブに載せなければいいのに(ひとのこといえませんか)。