サラリーマン所得のみなし控除

今月下旬の税制調査会の報告で、サラリーマンの「みなし控除額」を引き下げる方向が示される見通しと、今日の朝日に書かれていた。

いわゆる「964(クロヨン)」といわれたサラリーマン、自営業、農家、の所得把握率の格差が、消費税の導入などにより、是正されてきたというのが税調の言い分のようで、朝日の記事を見る限り、その論拠自体には疑問は提示されていないようだった。だが、そこには、経費をみなし額で一括に計上されることと、所得額が把握されることとの間の差異が見落とされているのではないだろうか。

新古典派の経済学が、合理的な「個人」を基本単位として経済を考えるということ自体、様々な問題を含むものだとは思うものの、とりあえずここではそうだ仮定として、しかし、問題は、コースのいうように「法人」としての経済単位をどのように考えるかということ。現在の税制が、「法人」もまたひとつの経済活動の単位として課税の対象とするのはわかる。しかし、だとすれば、その法人からサラリーをもらう人々にもう一度課税するというのは、どのような原理によって説明されるのか。労働者もまたひとつの経済単位として存在するものであるから、その労働力を売って得た賃金は、当然経済活動の課税対象となる。そうした説明は、ある種の説得力をもつものではある。だが、しかし、実際のところ、個々の労働者は、そのような「経済人」とみなされうるような自由な経済活動を許されているものだとはとてもいえない。「専業規定」によって自由であるはずの時間も会社に拘束され、経済主体として当然計上されるべき様々な経費も、お上に「フツー、リーマンだったら経費はこんなもんでしょ」と勝手に決められる。ひとりの「経済人」として課税されるのであれば、なんでそんな「決めつけ」に従わなければならないのか。特別支出控除の枠を広げるとかいうけれど、実際、すべてのサラリーマンが「白色申告」をするほどの「納税者意識」を持ったら、税務署はやぶ蛇でしょう。労働者として「生き続ける」こと自体、「赤字」であるひともいるだろうし。

こうした「原則」に由来する矛盾に対して、知らずにただ言いなりになっている「サラリーマン」たちは、もっと批判的な精神を持つべきではないかと思う。つうか、労働者は、ほんとうに経済合理的な「個人」とみなされていいのか?