『思想』6月号

イスラム社会には、なぜ近代資本主義が成立しなかったのか、その答えを、イスラム社会における法人格概念の欠如にみようとする論文。論旨はきわめて明快、というか単線的で、問題の複雑さに比べて、論述があまりにも単純すぎるように思える。見れば、読んでいるのは二次文献だけ。それを形式的に繋いでいっても、読書ノートと推論みたいな域を出ないのではなかろうか。テーマ自体は、面白く、実際に学としてやるにはかなり重いテーマに取り組んでいることには頭が下がるが(というか、このテーマで学振とってるのね。だとすれば上のことは差し引くべきか)、これではNHKのドキュメンタリー番組みたいな感じ(編集術?あ、社会学のひとなのね、首肯。)で、眉に唾つけてみないと駄目。期待したい領域だけに、残念。

たとえば、イスラムに「王の身体@カントロビッチ」みたいな概念がなかったとして、近代資本主義というのは、コースがいうように、ある意味で、そうした企業的なものを原理的に排除するものであったとも他方でいえるわけで(それが方法的なものであるとはいえとりあえず建前として)、そのあたり、二次文献ひとつ挙げてすませるというのはあまりでしょう。あるいはまた、個人的に消費せずに、次なる生産へと禁欲的に資本を投下していく動きというのは、それに時間についての意識が深く関わっているとしても(時間概念の分析も雑すぎ)、自身引いているウェーバーがいっているようにそれが極めてプロテスタント的な特徴であるとすれば、これも集団的身体というよりも、「個」に深く関わるものであるはずです。そのあたり、素人的にも様々に突っ込みうるところに対して、全く無防備であるというのは、どうなのでしょう。

レヴィナス『全体性と無限』岩波文庫近刊予定、らしい。頁付けが決まっているところを見ると、もう印刷にまわっているのだろうか。「解釈学的循環」を巡る言説の「歴史」を、ドロイゼンから適宜古典中世思想の響きを汲み取りつつ、レヴィナスまで辿る。歴史的方法の「理解」の次元から、この「私」をいかにして解き放つのか。実際、そのことが問題だと思う。

  • 他、門脇さん、信原さん等々、東大の先生。

しかし、『思想』は、東大、京大ほか旧帝リレー&手持ちの院生紹介?って感じで、この後も続けていくつもりなのだろうか。実際、そのぐらいのマーケットなのかもしれませんが。とりあえず、「若手」マッピングとしては使えるか。。