キャッチャー川本の倫理学

「期せずして最終巻となった」(誰のせいか知りませんけれど)、岩波応用倫理学シリーズの最終配本は、「経済」がテーマですね。

岩波 応用倫理学講義〈4〉経済

岩波 応用倫理学講義〈4〉経済

巻頭の「講義の7日間」に、編者の川本さんによる、「経済学と倫理学のキャッチボール」が載っています。いわく、「陰鬱な科学」である「経済学」と、「陽気な学問」である「倫理学」との「対話」だそうで(わかっております。これに対して突っ込みたいのはやまやまでしょうが、とりあえず)、経済学者がいろいろと難しい球−−市場というカーブ、所有というシュート、租税というフォーク−−を投げてくるので、それをうまく受け止めよう、というのが、彼の趣旨。実際、そうやって、「経済と倫理」の枠組みで現在話題になっているトピックスのおさらいをしてくれているのは、講座ものとしては一定の役割を果たしているのでしょう。彼のキャンチング能力の高さにかかれば、レヴィナスの『全体性と無限』のエコノミーについての記述から、森まゆみの『谷根千』コミュニティに至るまで、「ホントにその意味をわかって受け止めているのか」、という疑問ギリギリのラインが、いたって普通の日常の出来事のように、受け止められていきます。あたかも、「受け止めること」自体が、「倫理学」であるかのように。

しかし、どんな球に対しても、「いやあ、いいボールです。僕はこの球のファンを自任するなぁ」とか、「僕は、あなたの紹介者として、幸せ者です」とか言い続けることが、果たして「倫理学」の仕事なのかどうか、強い疑問が残ります。たしかに、それは「陽気」です。「お気楽」でありうるぐらいに。彼の陽気さの前では、どんな学問も「陰鬱」に見えることでしょう。しかし、そういう彼の「倫理学」は、キャッチした球を万人が受け取りやすいように、緩やかに投げ返すだけで、何か新しいものを生むようには感じられません。確かにキャッチボールは大切で、様々な学問の間のコミュニケーションは今まさに求められていることだとは思います。ですが、そうした対話が、日曜の平和な午後の公園でしか成立しえない、ゆるいものであるならば、おそらく何の意味も持たないように思われます。鋭く切んでくる球も、彼によって「受け止められる」ことで、もはや実効性のうすい「道徳」に薄められてしまう。実際、新古典派経済学を批判するに、あんなにユルい「道徳」の欠如を訴えられたところで、経済学者にどれほど訴えるものがあるのか、疑問なのですが、そのあたり、どうなのでしょうか。