劇場のイドラ

総選挙は、なんか「小泉勝利」っぽい雰囲気です。ネットとネオリベっていうのは相性がよいのか、マスコミの方が割と政治の劇場性を指摘しているのに対して、ネットの住人は、しっかりとリサーチしてませんけど、割合単純に「改革」の方を志向している様子。田原総一郎なんかは、解散直後、「今回の解散は国民にとってわかりにくい。同じく改革を志向しているはずの民主党が郵政反対を示しているから、小泉が示す改革の焦点もぼけるのでは」とかなんとか言っていたが、蓋をあけてみたら、小泉の提示する図式が最も「わかりやすく」て、それまで関心を引いていなかった郵政が議論の中心になり、民主党の方が霞んでしまう始末。マスコミもマスコミで、自分がそうした図式の形成に荷担したことを反省するべきだが、「亀井、綿貫、自己矛盾、小泉あっぱれ、わかりやすい」などと囃したてるネットの住人は恥を知れ。第一、昨今の「わかりやすさ」が争点になる選挙なんて馬鹿らしいにもほどがある。二項対立を示して世界を単純化しないと選択の基準がわからないなんて、そのように思考するように仕向けられているとしても、情けないといわなければならない。問題は、個々人の「プライベートな領域」が、個人主義の名の下に、他に対して「無関心」となり(それを「洗練された無関心」と呼ぶのは勝手だが、その弊害は大きい)、政治を自らの生活とは関係のないエンターテイメントの領域に押しやっていることだ。誰も、自分の一票が自分の生活を変えるなんて思っておらず、何か面白いことをやってくれたひとに投げ銭として一票をくれてやる気にならなければ、わざわざ日曜の昼日中、近所で半日潰すことの意味がわかんない、ということだろう。だから、政治は「わかりやすくなければならない」。だが、そんなことで、テレビでも見ているように、巷の出来事を眺めているような連中は、今後の政治が動いていく方向に対して責任がとれるのか。今回、小泉が勝てば、実際、旧来の自民党型の調整の政治は終わり、限りなく直接民主制に近い、「メディアの政治」がはじまることだろう。限りなく「お笑い」に近い政治が、茶の間から直接堪能できるようになる。だが、そうしたテレビの向こうの出来事が、足下の自らの生活を知らず知らずの間に変えていくということに、どれだけの人が自覚的だろうか。楽しむだけ楽しんだ後、テレビを消す(あるいはネットから離れる)と、狭く寂しい空間しか残されない、なんて未来がこなければいいですね。