『哲学』第56号

5月の日哲の大会の出欠はがきをそろそろ出さなければならないと、書類の山になっている机を探っていたら論集が出てきた。そういや、送られてきたまま忙しくて封筒に入りっぱなしだった。つうわけで、知人のYくんも載ったことだし(祝!)、今日は実はいなばさん経由で知った掲示板のコメントをつけたいところだったのだけど、なんか正反対のプロパーなエントリで。

  • 沖永宜司(帝京大)「内的特性の存在論的位置−−ジェイムズ「経験」概念の検討を通じて」

面白い。というか、ジェイムズ方面から「認識論と存在論の交錯」を考えるとこうなるわけですね。ベルクソンで常々同じ問題を考えている身としては、特に英米系の哲学的素養から展開される、僕にとってはおなじみの議論が、変調された曲を聞いているようで、非常に興味深かった。しかし、「内的特性」の存在論的な規定を「根源的不可知性」の方向でまとめるっていうのは、まあそういう道筋に妥当性があるとは思うけれど、何となく面白くない感じ。哲学屋はそれでいいのか、と我が身もろとも振りかえさせられる論文でもあった。

  • 柴田健志(鹿児島大)「真理と生−−スピノザの知識論再考」

ドゥルーズスピノザ解釈批判。

反論する前に述べておくべきであると思うが、じつは私は以上で概観したドゥルーズの解釈に始めから反対していたわけではない。むしろ、これまで私はドゥルーズの解釈にしたがって『エチカ』を読んできた。私にはドゥルーズの解釈があまりにも魅力的であったので、ドゥルーズの解釈と『エチカ』の諸定理との齟齬を怠惰にも不問に付してきたのである。したがって、ドゥルーズへの反論を試みることで、私は要するにこれまでの自分自身のスピノザ解釈を否定したいのである

という氏の語りに、公募論文としての形式ではどうかと思いながらも、ある種の誠実さを感じてしまうのは、僕だけか。まあ、単なる専門家からの批判というよりも、色があった方が面白いということなのかもしれないけれど。いっかいのドゥルージアンとしては、勉強させてもらいました。

デカルト、カントの認識論にみられる二元論的な構図を、ハイデガーの「事物的存在性」を軸として考察することで、ある種の存在論的な地平のもとに理解しようとする。

そこに主観客観図式、自然科学、判断という近世認識論の三契機が事物的存在性を共通の基底にして織りなす存在論的トリニテートを見出していく。この結果、ハイデガーの理解に限られながらも、精神による自然の認識を可能にした近世存在論の骨格が描き取られるはずである

問題の限定の仕方と、その位置づけが、あまりにも的確であるため、ときにみられる文学的(衒学的?)な言葉遣いも、きっちりとしたロジックに貫かれているる印象。ただ、「自然に対するこうした分節を遂行する精神」が、自然と共通の地平のうちにあるといわれるゆえんのところが、「[精神が]その判断の本来的な主語的基体として存在することを本質存在とし、同時に外的経験と結びついたその思惟的存在性のうちに現実存在が見出されていた」ということでうまく説明がついているのかについては少々疑問でした(それはそうだが、という感じ)。

なんか、あまりに自分のパースペクティブで論文選んでいる気がするけど、とりあえず目についたところだけ。