遠い眺望(ウェブに書くということ、その3)

いなばさんの指摘で、はまださんの掲示板へ(つうか、焚き付けてるでしょ、いなばさん。人が悪いんだから)。「遅い」というか、僕はこの件に関して、2chすら見てないのだけれど、プロファイリング可能で、しかもある程度思考レベルが見込めそうなので、とりあえず応答。

Name: はまだ
Subject: 大先生は反省されているが、

舞踊評論家は、今時どこで何を聞きかじるとあんな内容がでてくるのか疑問なので、
「『経済学』を調べてみる」以前。
それにスタイル(姿勢)というのは変わらんでしょう。
(つまらんことだが、検索すると、さかい氏が加入したら廃れて消滅したMLでは、地域通貨が好きそうだし)

#思想史って、大変なのよ。30年やってるK本大先生やO庭御大だって「痛い」んだし。

最近の世間の風潮として、臨床だとか倫理だとか、流行で金が出るからといって、
なんで哲学屋が蛸壺からシャシャリでてくるのか、わけわからんというか。
禄でも無いのが専門家づらするのは(例えば、痛く無い文明)、紙の無駄よりも公害だと思う。
まあ、誰でも評論家になれる御時世なのではあるが。

いや、よくお調べになるものです(笑)。おそらくは業界が遠いことで、「家族的類似」関係の焦点が若干ずれてたり、過大評価か過小評価かわからない認定など含んでいますけれど、まあ外側からはそんな風に見えるのかと。

まあ、しかし、今回の件でよくわかったのは、異なったパースペクティブをもつひと同士の対話は、わかっているつもりではありましたが、おもいのほか難しいということですね。もちろん、こちら側の視点も限定されていると思いますが、それぞれの業界での認定は、それなりに自己中心的というか、少なくとも一方的ですね。

今時どこで何を聞きかじるとあんな内容がでてくるのか疑問なので、
「『経済学』を調べてみる」以前。
それにスタイル(姿勢)というのは変わらんでしょう。
(つまらんことだが、検索すると、さかい氏が加入したら廃れて消滅したMLでは、地域通貨が好きそうだし)

「あんな内容」というのが何を指しているのか判明ではないため、なかなか応答しがたいところですけれど、とりあえずからんでみると、はまださんは、経済学が、もはや立ち返りを許さないほど議論を精密に積み上げて、個々の問題を「乗り越えてきた」と考えてると受け取ってかまわないでしょうか。しかし、僕にはどうもそうともいえない気がします。例えば、最も流行らない話題であるところの「価値論」でさえ、もはや議論の余地がないようなかたちで「乗り越えられた」とはいえないでしょう(少々具体例が恣意的ですか)。「あんな内容」の内実を自在に変更できる立場からはどうとでもいえるような気がしますが(例えば、個々の論点での認識の甘さを突くのは専門家からすれば簡単でしょうし)、経済学における古典的な論理が、現在のシステムにいかに影響を及ぼしているかに関心を持っている僕としては、はまださんの文面は逆に、「流行の話題」を追っているだけのもののようにも思えてしまいます(実際、この点ははまださんの比較的業界内語的な物の言い方からの僕の読み込みがあるだけですが)。

あと、さかいさんの名誉(?)のためにいえば、あのMLはさかいさんが入った時点ですでに(というか、最初からあれは多数の参加者が発信可能な「ML」としてきちんと機能していたとはいえないものだったのですが)、廃れていたものですね。地域通貨についても、出たときは面白かったのですけれど、今はそれほど、という感じ。スタイルが変わらないというのは、もしかしたら意味が違うのかもしれませんが、そのとおりで、その点は何となく若気の至りを見られた感じで恥ずかしいですね。やっぱ、ウェブに公開するんじゃなかったなぁ。。

#思想史って、大変なのよ。30年やってるK本大先生やO庭御大だって「痛い」んだし。

最近の世間の風潮として、臨床だとか倫理だとか、流行で金が出るからといって、
なんで哲学屋が蛸壺からシャシャリでてくるのか、わけわからんというか。
禄でも無いのが専門家づらするのは(例えば、痛く無い文明)、紙の無駄よりも公害だと思う。

なんか僕も自分の立場とかあるかもしれないから、微妙だけど、上の引用のある部分については禿同。実際、臨床とか応用とか、くだらないんですよねぇ。一応金が出るから若手とかも動員されちゃうし、逆にそうした一般受けする業績がないとポストがなかったりするし、洒落にならない。その点は、僕のやってることとごっちゃにしないでほしい(ひらに頼みます)。昨年度の倫理学会ではわざわざ応用倫理批判もしたのですから。そうしたことも同族の「父殺し」と解釈されるとするならば、何とも歯がゆい。

でも、「わけわからん」といわれるのは、やっぱり外からの物の言い方で、うちの業界内部的にもいろんな混乱があってのことだし、さらにいえば、例えば「経済学」の内部でうまく解決のつかない問題があるからそういうのを呼び込むのではないかといえなくもない。例えば、A.センとか、ああいったことを「新しい」(のかどうか?ごりごりの経済プロパーの人の判断は実は知らないのですが。うちの業界の「応用」みたいなものなの?)とするような学問って、かなり隙だらけなのでは、と。

こうした点、なにげに最後の一文が伝えることって大きな問題かと思う

まあ、誰でも評論家になれる御時世なのではあるが。

こうした、個々人が個々のパースペクティブにおいて物をいうことが、流通するという一点において価値をもつ「ご時世」って、「経済学」が全盛であるからこそだと思いませんか?これは経済を学問するひとがどうのということではなく(逆に経済学をやっているひとは経済現象に対するマクロな視点を取りうると思いますが)、経済の構造に起因することだと思います。ある意味で、業界ごとに専門化される(「職業としての学問」が成立する)ことで発生する、今回のような「対話」の齟齬も、広い意味では同じ構造に起因していると思う。

まあ、それでも、みなが自分は「客観的」な認定を下しているという論調で話を続けるのであれば、やっぱり、話をする相手を間違えている感じもするのですけれど。要するに、異なったパースペクティブを前提とした上で、業界内部で「俺様化」することなく、あるいは相対主義という名のあきらめにも陥ることなく、「対話」をすることが必要だと思うわけです。