古典を読むこと

先の論争のときも、場外でkajikajiさんに皮肉られてましたけれど、おそらくは戦後、教養主義が解体されて以降、古典を読むことの自明性は失われているわけですね。実際、慎太郎曰くの「やせっぽちのインテリ」の大部分、つまり今の一定年齢以上の、岩波新書や文庫の購買層たるおじいちゃんたちは、あのころの支配的なイデオロギーに踊らされていただけで、解釈学の実質的なところまでちゃんと理解できていたかどうかわかりませんし、まあおそらくは、ああした「主義」なるものは、その時分の社会体制に依存する部分が大きかったと思いますけれども、だからといって、戦後民主主義あるいはグローバリズム全盛の現代において、その意義が失われているわけではないと思います。

まあ、少なくとも「学者」である人々にとっては、実際教授会とかで顔つきあわせざるを得ない「連中」でもあるし、そうした古典研究のエレメントを、自身どう思うかは別として、とりあえず「理解」するとは思うのですけれど、一般のひとは容赦ない、というか、自らのパースペクティブでものを評価する限りにおいて、「消費」したくないものは買わないわけですね。だから、永井均とか中島義道とかが買われる。

なんつうかな、しかし、まあ結局、「哲学」なるものをどの次元で捉えるかということだと思うのですが、僕自身は、「哲学」は、現在流通している価値体系を一旦括弧にいれて、思考することだと思うわけで、そのためには、「自分」なるものを価値選択の基準において思考することは、単なる功利的な生活の指針にはなっても、結局体勢の価値観を追随することになってしまうだけだと思うのです。反面、狭義の「社会学」は、おそらく、現状の社会を対象的に突き放して分析することにおいて、その構造の内的な構造を批判する契機を失い、そのことによって「哲学」たり得ないと思うわけですが、その点はまた別の機会に。ともあれ、「哲学」が、現状の批判として有効に機能するためには、現在の社会を支えている古典の土壌を耕すことが必要になるわけですね。

学問的対話というよりも、コメントを受けての雑感という感じで、意味のあるエントリかどうかわかりませんが、とりあえずのリアクションは必要かなということで、書いておきます。