『倫理学年報』第54集

昨年の倫理学会では、台風が直撃したこともあって、本会の受付をちゃんとしなかったため、今更ながら年報が送られてくる。またまた非常に遅い反応ではあるものの、とりあえずのチェック。

  • 川谷茂樹(九州大)「『ホワイ・ビー・モラル?』とカント」

一時期(って、サカキバラの時だからだいぶ前ですが)「流行」った「道徳の問題」が、こうして倫理学上の問題として当然のように語られるというのには吃驚。

「(Why be moral?という)この問いに集約されるような道徳の理由そのものへの問いは、古代ギリシアソフィスト以来現代にいたるまで、さまざまなヴァージョンをとって問われかつ答えようと試みられてきた、古きにして新しい問い、もっとも素朴にしてかつもっとも答えるのが難しい問いといってよい。」安彦一恵・大庭健溝口宏平編『道徳の理由』

という、雑多な論文集を編むときの定型文句ともいえる言葉を、何の疑いもなしに受け入れ、

このように考えるならば、あらゆる倫理思想は何らかの仕方でこの問いにコミットしているはずであろうし、またそうするべきであろう。

というのは、あまりにナイーブだと思う。実際、「何故人を殺してはいけないのか」という問題は、倫理学上の大きな問題だとは思いますよ。けれども、一個の論集が(10年以上前に)編まれ、一時流行っただけの問題設定が、きっちりと問題として限定されもしないままに、自明のものとして語られるのには、正直この学会大丈夫かと思ってしまった。

問題が問題としてうまく設定されているのかすら問われるべきなのだから、

ところが意外なこと、Why be moral?とカント倫理学との連関は、正面から主題的に論じられた形跡が殆どみられない。

というのは、「当たり前」。そうしたことを無視して以後、Why be moral?とカント倫理学の関係を問うということを、これまで誰もやったことがないことのように展開していく態度は、なんというか、「造語」によって新しい問題領域を開拓したかのように振る舞う、資本主義的出版界の悪いところをまざまざと見せつけられる気がした。

しかも、それによって新しい問題と解決がもたらされるかといえば、そうではなく、論の展開は、典型的とでもいえるようなカント倫理学の解釈で、しかも過去のカント解釈の業績に遡ることはしないというもので、最後に

カントの道徳の本質理論、すなわち定言命法という思想は根本的に矛盾している。しかし私は、むしろその点にカント倫理学の生命力の源泉を見出す。

などと、ありがちな論文定型を使って、「我々はカント倫理学の読解を通じて、道徳の自己矛盾的本質をこそ洞察すべきなのではないだろうか」と疑問系で論文を閉じるという、どうかと思うもの(というか、カント解釈としていうのだったらもっと問うべきものがあるはずでしょ)。なんつうか、こうした論文を公募で通す編集委員の見識が問われると思うのですが、どうなのか。

『論研』においては、非客観化作用として脇役にとどまっていた意志や願望といった、とりわけ実践に関わる「理性」の部分が、1908−9年の倫理学講義を経て『イデーンⅠ』に至る過程で、「ドクサ的な意味定立」というある種の客観化作用として捉え直され、その契機が1914年の「意志の現象学」講義(28巻)や『イデーンⅡ』における、創造的な志向性へとつながっているということを示す論考。

フッサリアーナの新しい刊を使った、フッサール現象学の読み返しという作業だと思われるが、それをきちんと理論の発展の過程の中に位置づけ、評価できている点がすばらしい。ナトルプ報告に由来する「カントのお勉強」の時期に、フッサールは「実践理性」の方面まできちんと目を配ってたのですね。知りませんでした。

未来の存在の信念に基づけられて意志が存在するのではなく、むしろ、未来のものの信念は意志することから生じる信念である。[XXVIII,107]

ここで登場する知覚は、つまりあらゆる顕在的な行為の位相をもつ知覚は、創造的主観性から湧き出た知覚という性格をもっており、その客観は創造的な『fiat』のゆえに存在する。[XXVIII,107]

という意志による「創造」の記述は、認識論的な枠組みに動的な膨らみを与えるものとして、非常に興味深い。個人的には、こうして「厳密」な仕方で語り出される実践的な側面を、未来志向的な行為に関わる部分を示すだけでなく、その存在論的な位置づけに関わるところまで進めていってもらえたらなぁと思う。

  • 圓増文(えんぞうあや、慶応大)「QOL評価と『基本財』−−『公正としての正義』を用いたQOL指標の基礎づけ」

A.センの「潜在能力」を引き合いにだして論じられることが多い、QOL評価基準を、センのロールズ批判や、それに対するロールズの応答などを参照しながら、ロールズがいう「基本財」概念の有効性を再構築しようとする論文。プロパーな議論を丹念に追って、センとロールズの対立が、両者の立論の方向性の違いによるものであることを示す。すなわち、センは、「人々の生活状況を評価する上で、何を情報とするのが適切か」と問い、ロールズのいう基本財を情報とするのでは、個々人におけるいまだ実現されていない潜在的な能力を取り逃がしてしまうと批判していたのに対し、ロールズの立場からすると、「公的社会は個人の幸福を最大化する必要はなく、そのため個人間比較において個人の生活に関わるすべての状況を評価する必要もない」わけで、その限りにおいて、「いかなる事柄が評価されるべきか」が問われることになる。それゆえ、センのいうように、潜在能力を評価の基準となる情報として採用するにしても、いかなる潜在能力を評価の対象にするべきかを問う段階において、ロールズが説いていた基本財の概念が有効に利用可能であることになる。事柄を丹念に切り分ける筆致もしっかりとしてるし、論旨も明快、論文としてのできは文句ない。

しかし、後は好みの問題なのかもしれないが、この論文が位置づけられる問題系自体はなお問われるべきなのではないか。個々人のパースペクティブからは外的な立場に立って、いかに財を配分するべきかを問うことは、それが、個々人の生の内容を何らかの価値に基づいて判断することなく、単に形式としてのみ問われるものだとしても、まさにその形式が属するべき社会構造を自明なものとして前提にしてすることにおいて、社会システム全体を批判する余地を失い、結果として、現状の社会での「政策提言」に止まるものであることになってしまう。そうだとするならば、もはやそれは哲学や倫理学のやることとはいえなくなるのではないだろうか。