生態学的倫理学

で、間があいてしましましたが、染谷氏の『思想』論文。「知覚は誤らない」ということを示す、ある意味非常に大胆(とんでも?)な試みだが、ギブソン以来の直接知覚論の敷衍としては真っ当なものであるように思える。「知覚する」ということは、達成動詞と考えられ、「勝つ」という動詞が、あるレースに「勝ち」ながらなおそれを失敗していたということがないのと同じように、「知覚されて」なお知覚が失敗していたということもない。様々なパターンにおいて「知覚錯誤」を唱える人は、知覚されているにも関わらず、それが同時に誤っていると主張するが、しかし、生態学的には、知覚は、状況におうじて変更することがあったとしても、それはよりよく知覚を達成しようという努力の結果であり、誤りであるとはいえない。知覚が「誤り」であるという認定は、ある限定的な状況において、他のより「客観的」な見方を援用してはじめて可能であるが、それは知覚という機能を非常にスタティックにしか見ていないことによるのだ。こうして染谷氏は、知覚は常に実在する情報をあるタスクとして捉え、情報がはじめから偽であったり知覚が勝手に主観的な対象をでっち上げているということはありえない、と、最終的にギブソン実在論的解釈を引き継ぐことになるのである。

こうした試みは、氏の展開する、ギブソン実在論な立場を一歩先に進めたもので、一貫して生態学的なアプローチを体系的に展開している点で、評価されるべきものだろう。論の展開の明晰さと生態学的体系の先に知覚の「倫理学」を構築しようとする情熱には並々ならぬものがある。しかしながら、これまで知覚や実在について語られてきた事柄を、「生態学用語」を用いて「体系」的に完成させていこうという試みは、まさにその体系性において、ある危険性を孕むように思われる。例えば、次のようなライルの引用について。

まさにこの理由により、ムネアカヒワを見たとか、ナイチンゲールの鳴き声を聞いたと主張する人が、ムネアカヒワはいなかった、ナイチンゲールはいなかったということに納得すると、先の自分の主張を即座に撤回するのである。「私は非存在のムネアカヒワを見た」とか、「私は実在しないナイチンゲールの鳴き声を聞いた」とは言わないのだ。[上、47]

こうした主張は、常識的な立場に立つ限り、十分な説得力をもつものだろう。しかしながら、ここには、実在論的な生態学特有の前提が設定されているといえる。ここでは、ある時点において知覚されたものが、他の時点においてその判断の変更がなされることが示されているわけであるが、そこで問題なのは、ことなる時間において、意味的な同一性が保証されていない状況において、対象的同一性が常に成立していることが前提されている点である。染谷氏の生態学は、その実在論的な前提において、外界にある対象の実体性を所与のものとみなし、そのことによって異なる時間における対象的な同一性を当然のものとする(そうでなければ、同じそのものが、ナイチンゲールではなかったと、遡及的に否定されることはあるまい)。だが、そうした前提を外して、対象自体の同一性はどのように規定されるのか。そこには、少なくとも疑問を差し入れる余地が残されることになる。ひどく恣意的な状況を設定すれば、ある時点において見られた「ナイチンゲール」は、さらなる知覚の探求において恒常的に見出されず、その意味において「非存在」なものでありながら、別の時点において「そのように思われたもの」が異なった鳥であると判断されてなお、「ナイチンゲール」であると思われていたものがその鳥と同一ではないとすることが可能である。そして、そうだとするならば、「非存在のナイチンゲール」は、ある時点の知覚という場においてだけ成立していたもの(それを誤りというかどうかは別にして)ということも可能であることになるのである。

こうした単なる可能的なものに見える問題は、しかし、氏の展開される「倫理学」の規定に影響することになる。氏は、最終的に行為の「善悪」を、いかにしてタスクが達成されるのかという基準で測ろうとするわけであるが、現実における行為達成を「善」とする氏の価値基準は、前述のような単に意識にのぼるだけのものの価値(すなわち、宗教や芸術の次元に連なるものの価値)を、現実の行為をアフォードするという一点においてのみ測ることになってしまうだろう。しかしながら、そうした一元的な価値基準は、アフォーダンスの体系性を完結させたところに、諸々のありうべき倫理学を排除することになりはしないか。その点、哲学と他の学問(特に自然科学)との間の架橋を目指す氏の試みが、かえって理論的可能性を狭めてしまうことになるのではないかと危惧するところである。