ブログでの議論はどこまでアカデミックか

本ブログの4月4日のエントリに対して、稲葉さんが大人として大人げなく忠告のコメントを寄せてくれたりして、微妙に盛り上がっていたのですけれども、ご自分のところにも批判記事を書いてくれた模様。きましたね。なんとなくプロの物書きとしての心得とはなんぞや、みたいなことを諭されているように思えるわけですが、さて、なんとお応えすればよいでしょうか。

まず、ちょっと前からの話で、『経済学という教養』について。

氏は拙著『経済学という教養』を読まれたらしいが、残念なことに私が一番言いたかったことは伝わらなかったようだ。しかしこの点については、たとえば仲俣暁生氏のように(http://d.hatena.ne.jp/solar/20040115#1074178586)、十分に理解してくださっている方を複数お見掛けしているので、無理解の基本的な責任は荒谷氏の方にあると私は判断する。

と稲葉さんは書いてるわけですが、仲俣さんの感想はそれ自体としては理解しますし、稲葉さんが伝えたいこともその点にあったというのも何となくわかりますけれど、でもその感性を共有するべきだとおっしゃいますか。とりあえず、仲俣さんの「同世代的共感」をそれとして認識しつつも、なお違和感をもつといってもかまわないでしょう。それを「無理解」というのは、とりあえずいいすぎなのではないでしょうか。えと、そもそも、ここで「無理解」として参照されるべき言質は、3月20日ごろの僕の「暴言」以外にないですよね?

ことの発端は、contractioさんのブログ上にて、稲葉氏が、おそらくは経済学ということで気にかけてくださって、しかし、他の僕のエントリに、氏が自身のサイトでもこっぴどく批判している大庭さん的なものを感じ取りつつ、氏自身のパースペクティブから、

で、中味はどうだったんですかね。
大庭先生みたいには痛くなかった? 
荒谷氏のブログを見る限りは、まともに経済学の勉強をしてないということしかわからんし、「有益なコメント」も平田清明じゃあな、としか思えないが。

と書いてたことで、これに対して、contractioさんが、なぜかいなば大人が出てきたことに強く反応して(この意味では釣られたのは(僕もそうですが)contractioさんもそうだと思いますがいかに>contractioさん)

「とりあえず『経済学という教養』嫁」という方向で、今後の研究の進展を見守らせていただきたいと思います。

と発表を見た立場からの内容報告というよりも、保護者的な態度をとられたことに対して、僕がそりゃないでしょうよと思い、一応読んでいることをお伝えしつつ、かなり気分を害しているんですけど、ということをお伝えしたくて、

あら、ホントにいなばさんだ。ワーイ。
いや、実際、「教養」であるかどうかは別にして、これまでキチンとやってこなかったので、かなりお勉強も兼ねてということなのですよ。
しかし、正直いっていなばさんのリベラル傾向?の経済学の読み返し、あるいは、「ソーカル事件」を発端とするポストモダンとの決別?みたいな動機は全く共有できませんです。「マルクス主義」の誤謬を引きずるつもりはないですけれど、御著書の中での切り捨て方はあまりにも「敵方サヨ」を矮小化しすぎと思いました。と、まずは読んでるぞ、とアピール(藁。

と「暴言」を吐いたことがきっかけでした。確かに、こうした言い方はかなり失礼であり、

それゆえ批判する相手に対して失礼のないように、また第三者のギャラリーをミスリードしないように、そして何より自分が恥をかかないように、細心の注意を払う必要がある。

という稲葉さんの基準を満足するものではなかったと思います。ですが、しかし、最初の稲葉さんの書き込みは、同じ基準を満足するものだったとお考えでしょうか。「第三者のギャラリー」に対する影響力でいえば、最初の書き込みも、単なるコメント以上のものだったように思えますし、そうした稲葉さんのパースペクティブから「批判」をなさる場合、もう少し「大人」であってもよかったはずです。もう一度触れるのはフェアではないと思いますけれど、この件に関しては、稲葉さんの方も一度反省なさっているはずで(覚え違いでなければ。確かに僕の方は「文体」についてしか振り返っておらず、当該の「暴言」について明確な謝罪はしてませんでした。その点お気に障っていたのであれば謝ります)、その件で、もう一度ここで、僕の「無理解」を示すソースとして参照される理由が、僕には理解できませんでした。

もちろん、僕もあのような暴言で「違和感」だけ表明し、きちんと批判として機能するような内実を明らかにしていないので、その点ご不満なのだとは思います。ですが、もともと上のような文脈だったのですから、その点について僕に説明責任が発生し続けていたとは、今回の稲葉さんのエントリを見るまで了解できていませんでした。もしその違和感をきちんと、先の基準を満たすように表明しろというのであれば、あらためて(というか、そんだけの形式を守るとすれば、もったいないので論文のかたちで書かせてもらいたいと思いますが)表明させていただきたいと思います。

で、こうした「前の話」が蒸し返されたのも、おととい書いた本田さんについての評が原因なわけですが、確かにあれは(も?)アカデミックな批判の基準を満たしていたとはお世辞にもいえないでしょう。何かを説得的に語ろうとするというよりも、同じ意見をもつだろうような人に向けての同感の表明みたいなものだったようにも思えます。しかし、僕は、「子どもや若者は社会で生きていくうえで、『対人能力』や『進路意識』なども含む全人格的なタフネスをかつてよりも要求されるのであり、それを与える基盤としての家庭の重要性は高まってきている」というような断定を、当該のデータのみから結論するのはやはり難しいと思わざるをえません。「①校内成績が高いこと、②家族とのコミュニケーションが密であること、③職業高校に在学していること、そして④女子であること」が「対人能力」を高めることに対して、統計的に有意であることが正しいとしても、そこから「家庭」が「対人能力」を与える基盤「である」などということはできないでしょう。少なくとも、統計的な述語と命題的な述語の間に決定的な意味の差異があるように思います。

実際、ああした生のデータを解析するのは手がかかって大変だとは思いますが、問題なのは、もし、今の学生が「全人格的なタフネスをかつてよりも要求される」のだとしても、なぜ、そうなのかを問うことなのではないでしょうか。統計的な手法では、社会の現状を炙り出しで見ることはできても、それ以上の構造的なところまで「原因」を探ったり、社会的な「対処法」を示すまでは原理的にできないと思われます。データを解析して出される「オピニオン」が本当かなと思われるのはまさにその点で、「対処法」を示す段階で、通俗的な価値が巧妙に挿入される可能性があるように思ってしまうわけですね。もちろん、実際には、そうしたことをいうにしても、対案をだすとか、いろいろとこちら側に求められる作業があると思います。が、しかし、とりあえず、そうしたことを「感想」としていうことが、ブログという場で(言い方の失礼はあるとはいえ)許されないほどのことではないのではないでしょうか。

実際、ブログというメディアをどのように位置づけるべきか、僕の中でまだよくわかっていないのですが、しかし、学者としてのストリクトな基準は僕もある程度は理解しているつもりで(指導教官も厳しい人でしたし)、その基準を満たすものを書くのであれば、ここではなく論文にした方がよいとも思うわけです。いや、稲葉さんが僕の学者としての将来をおもってくださって、学者というものは、仮にブログであったとしても、厳格な基準をもって話すべきだと諭してくださっているのだとすれば、これは非常にありがたいことであって、真摯に受け止めなければならないことだとは思います。しかし、ブログという場で、どこまで要求されるべきかはもうちょっと微妙な気もします。このあたりは、もう少し考えさせてもらうということで、今日のところはこの辺で。