「基礎づけの人」である件について(同、宿題)

上の話とも若干かぶりますけれど、僕がいろいろ書いている論文に通底する、いわゆる「基礎づけ」的な手法は、「根拠がない理論はいけない」といいたいというよりもむしろ、根拠(ロジック)を共有することで対話をしましょうよ、というのが強いモチベーションになっているように思います(自己反省は、あてにならないかもしれないけれど)。ある命題を命題として有意味にさせている「論理学」は、通常の叙述では背後に隠れているわけですが、しかし、意味が成立するためには必ず機能しているはずだろう、と。しかし、それは「常識」としてのみ共有されるのではない。例えば、僕には英米系の人が、もう当然のように語っているいろいろなことが、時にほとんど何を意味しているのか不明であることがあるわけですが、それは彼らが「理性」として当然だと思っている論理を、根拠も明らかではないままに、強要しているからのように思われるわけです。だから、僕が「基礎づけ」に走るのは、「ちょっと待て、あなたのいうことはよくわからない、あなたの背後に隠れてあなたを正当化しているロジック(論理学)を明らかにし、しかる後に話をしよう」というわけです。で、もし、彼らが彼らのロジックを、無意識的に濫用していたとするならば(つまり、論理学を逸脱したことを語っているのであれば)、それは誤りであろう、というわけですね。これまで書いた論文をすべて見返して書いているわけではないので、懐古的錯覚の部分が多々あるかもしれませんが、とりあえず、そんなところでどうでしょう?あ、ちなみに、ここでの「論理学」は、アリストテレスにおける分析的論理学と総合的論理学に、カントの超越論的論理学をも含めた意味で使ってます(参照、拙稿「出来の論理学−『アンチ・オイディプス』の哲学的基礎づけ」)。