市民社会と宗教−あるいは、ツァラトゥストラは山を下りたのか否か

書いてみて、あまりにもベタなタイトルで、唖然とするわけですが、しかし、結局のところ、それは僕がこれまでこうした問題をちゃんと考えてこなかったからなのかもしれません。

巷では、ライスという、元スタンフォード大学長(若いよねぇ)の国際政治学者が、中国に信教の自由を求めるだの求めないだのという話題が流れておりますが、まあ、大雑把にいって、マルクス主義を奉じる「僧侶」たちのスコラ的な秩序への志向とかいったものは、諸宗教を阿片として排斥したのちに機能した、ある種の動かざるものの創設であったわけで、そこへ「信教の自由」なるものを持ち込むことは、市民社会自由経済流動性を発動させるための起爆剤となるというわけですね。で、まあそのことがアメリカを利することは、前回の発表したことでもあるし、いうまでもない。

ひどく個人的なことをいえば、これまで僕は、「現代思想」なるものを「宗教」の代わりとなりうる、新しいロジックを提供するものだと考えていました。こうした言い方自体、「現代思想」にありがちな秘教的な語りかもしれないのですが、それはとりあえずおいておいて、そうした文脈から、市民社会には当然みとめられるべき「信教の自由」なるものを、〈魔術〉からの解放とほとんど同義なものとして、ひどく近代的なオプティミスティックなものとして考えていたわけですね。まあ、しかし、ここに来て、やっと、もっと構造的な力を持つものであることに気がつかされたわけです。つまり、非常に当たり前なのですが、「信教の自由」っていうのは、「宗教」を社会秩序を支えるロジックに使わない、という意味では脱魔術化ではあっても、同時に何を信じてもよいということでは、どのように魔術化されてもかまわないということを意味していたわけですね。つまり、「自由」とは解放ではなく、流動性だと。そして、そこに、「世俗化」された秩序に、思想の介入する余地があるのかもしれない、のかどうか。とりあえず、現状において、「好き勝手信じてよい」という自由が同時に押しつけでありうるとか、流動化が同時に何故か必然的に集団的な軽薄化をもたらすとか、いろいろ難しいところが残っているので、「近代」というのは、思った以上に厄介なしろものだなぁと思った次第なわけですよ。なんとも。