本日のどこかで聞いたような言葉

「君がアクティブと名付けた小さい誇りを捨てたまえ。…世界には百度読み返しても読み足りないほどの傑作がある。そういう物の前にひざまづくことを覚えたまえ。ばかばかしい公衆を相手にして少しぐらい手ごたえがあったからといってそれが何だ。君もいっしょにばかになるばかりじゃないか」和辻哲郎「教養」

「時好に投じ流行の問題を捕へて読者の意を迎へる雑誌は少なくありませぬ。また専門の学術雑誌も今以上に殖える必要はなさそうに思はれます。しかし時流に媚びずしかも永遠の問題を一般の読者に近づけようとする雑誌は、今の日本に最も必要であって同時に最も書けてゐるものではありますまいか。弊店はこの欠を補おうと志したのであります。」岩波『思想』(第一期)「発刊の辞」

かつて教養主義マルクス主義者たちが、大きな依存関係を保ちながらも、痛烈に批判した「教養主義」。そして戦後の民主主義体制が「裸にすればやせっぽちのインテリ野郎」(石原慎太郎『処刑の部屋』1956)と切り捨てた知識人の原型。今、「戦後」を見直そうというとき、単なる反発に終わらない運動をつくることはできるのだろうか。少なくても石原的マッチョが、多分にアメリカ的なものを背景に成立していることは記憶にとどめておきたい。