内在からの脱却(続)

いつもイベント情報、サイト情報等でお世話になっている「成城トランスカレッジ!」さんがブロガーチャット勉強会なるものをやっているみたいなのですが、その中でニートが題材にされていました。で、知らなかったのですが、最近ところどころで見かけていた「ニート君」というのは、ニートを取材したテレビ番組からキャプチャで取り込まれた画像をもとにして勝手にコラージュされたものだったのですね。こりゃ確かに犯罪だわ。

図らずも前のエントリー(id:d-araya:20050124)で書いたような「資本主義的な構造」を示唆するような発言も当該の勉強会であったようでしたが、彼らはなどは先の記事をどのように読んでくれるのか、少し気になりました(勝手に自己移入しているだけ?)。。。

それと、先に書いた「ひきこもり」と「ニート」の差異についても、当事者よりの視点から

そうした状況が、≪ニート≫というこの単語が流通したことによって、劇的に変化したように思うのです。これまでは≪内面の葛藤≫の問題としてのみ語られがちだった「ひきこもり」まで、一気に≪就労≫≪社会的環境≫との関連において語り得るようになってきた。

と上山さんが指摘していて、そうかと思わされました。つまり、「ニート」という言葉が、「社会」という外部の視点からもたらされることで、「ひきこもり」という立場を、自ら「社会」の文脈において捉える契機も生まれるということでしょうか。個人的には、「働いたら負けだと思う」というニート君も、社会における自分の位置づけをかなり的確に判断しているひとのように思えて、好感をもつのですが。。。

しかし、それでも内在は脱却しなければならないと思う。ニート君を「まつる」2ちゃんねらーに、「ニート=負け」という図式が定着していて、肯定的に捉えるひとが少ないように思えたのは非常に残念だけれども、単なる「勝ち/負け」の二分法ではなく、ニートを通じて現状の社会の問題を考え、それを現実に変えていくことが重要なのだと思う。