内在主義的哲学からの脱却

いまさらながら、NEETに関して思う。

似たような言葉にフリーターというのがあるが、フリーターの方は、一時期のライフスタイルとして主体的にも選択され、後になって「社会」が問題としはじめたものであるが、NEETに関しては、はじめからイギリスの統計資料がもとになっている点で大きく違うといえる。よく指摘される、フリーターには労働意欲があるがNEETにはないという差異もまた重要だと思うが、なんというか、それためのだけだったら、ちょっと色が付いているけど「ひきこもり」みたいな言葉もあったし、何も新しい点はない。外来語をもってきて新しい問題自体を「発見」したつもりになるのは、ある意味いつものことで、今回も一部の連中がそれを自覚的or無自覚的に繰り返しているのであれば、辟易するしかないが、しかし、今回どうしても気になるのは、問題にされる視点が、はじめから当事者にとって外的なものであるという点である。

たしかに、一部流行り物好きの知識人、例えば、加藤典洋村上龍もそうだったっけか?の中で、社会的な視点から問題にされたNEETを主体的に読みかえて、「NEETを生きよう」みたいな呼びかけを行ってはいる。が、しかし、やはりそれは事後に流行りに乗っかっただけで、そんな主体性など金輪際持ち合わせていないというのが、つまり、当事者からは問題あるいは主張すべきこととしてすら受け止められていないという点がNEETの典型的な現象なのではないか。実際、ネット界隈でも、諧謔的にNEETを自称する人は多い。が、そうしたアイデンティティを確立することが、諧謔以上の主体性を生み出していないように思われるのである。

で、ここで思い至ることといえば、哲学なんぞをやっている人間に通底する「脱俗」的なメンタリティである。一部の英米系の哲学者や応用系のものを専門としようと思うひとでないかぎり、哲学屋が哲学屋として持ち合わせるべきは、現実社会で通用している常識を一旦括弧にいれて批判的に思考することであることに同意してくれるであろう。テクストを丹念に読み解き、あるいは事柄を仔細に検討することで、哲学屋は、通俗的な常識を乗り越えようとする。効率性を至上とする資本主義の中で違和を感じ、それが常識となっている「社会」へと巻き込まれていく手前に立ち止まって考えたい人、あるいは、単に不幸にも大学時代に教えを受けた教師に感化され、自己の内部において「真実」が組み上げられることに「かっこよさ」を感じてしまった人、いまどき哲学なんぞをはじめる人の動機も様々であろうが、そこに共通するのは、例えば、人文系の大学院に進むことを、一昔前であれば「入院」と自称し、最近ネットでも話題になったところであれば「社会的自殺行為」と自ら笑うメンタリティであろう。そこには、ある意味、NEETと同じような諧謔があるように思われる。哲学屋は、社会から距離をとり、「非生産的」であることを諧謔的に自己肯定するが、その自己肯定は、少なくとも社会に対して、何か主体的に主張することには決して結びつかないのである。こうした哲学者の「内在主義」は、知的な洗練の程度差こそあれ(NEETのひとつのEは、教育だった。が、しかし、哲学における教養が、問題とされる「収入」へ結びつくような「教育」とはかけ離れているように思えるし、何らかの意味での洗練を求める傾向は、2chにすらあるのではないか)、問題とされるNEETと同じ構造を持っているように思われるのだ。

だからどうしたというのか。いいたいことは、二つある。

ひとつは、「社会」の側から盛んに問題として提出される「ニートが生まれる背景は何か?」、「ニート対策はどのようにすればよいのか?」といったことがらに対して、一定の見解が得られるということだ。ここでは、哲学者をNEETに擬して、哲学者を(自ら)笑いものにしようとすることに意図があるのではない。それは、単に哲学者の諧謔を繰り返すだけであろう。そうではなくここでは、ニートというものが、ある意味で「社会」の裏面として、必然的に生じるものであるということである。働く意欲すらないのは、資本主義社会の中で「働く」ということを無条件に肯定するような「社会」の側の視点からは理解することが難しいかもしれない。が、それを批判的に思考するものにとっては、それほど不可解なことではない。哲学者は、NEETがいかにして生まれてくるのかについて、それが「社会」の言語にはなり得ないレベルではあっても、十全に説明することができるのである。

しかし、もうひとついわなければならないのは、哲学者もいい加減そのような態度をやめるべきではないのかということだ。有り体にいって、一旦社会から身を引きはがして内在的に思考し、そこで「真実」を組み上げるといった手法は、哲学内部において乗り越えられるべき病巣であると思う。そうした「病巣」は、おそらく、「私」なるものを思考の中心に据えたデカルトやロックの近代までさかのぼり、哲学が哲学であることの礎にも近いことだといえよう。だが、そうした礎に安住して、諧謔的にしか設定されないはずの自己を、ねじ曲がった仕方で肯定することは、もうやめなければならない。最近でも、永井均のように、自己に内在する「哲学」の廉価版の再生産をする人が後を絶たない。だが、もし、そんなことが哲学であるならば、哲学は死ぬべきであるといわなければならないのである。

今度こそ、哲学は、内在的な観念論の逆立ちをやめなければならない。それは決して通俗的な価値観に迎合することではないし、ましてや通俗マルクス主義的にお子ちゃま対立図式を振りかざすことでもない。それは、それまでの脱俗的な批判態度を実践へとうつることである。社会の実相で、主体性を持ちうる哲学のあり方が、求められているのである。