Wiki-pedia の反エリート主義

前のエントリ(id:d-araya:20041216#2)で、ウィキペディアには「知の戴冠」みたいなものが必要、と書きましたが、現在ウィキペディアを担っている人々は、そうした知性主義みたいなのを廃する傾向をもった人たちのようですね。で、ウィキペディアの開発メンバーのひとりだった人が、そうした反エリート主義を捨てなければならないと訴えるということが話題になってました。

記事を読むと、なんでもウィキペディアには「あらし」のコミュニティが形成されていて、学術的な観点からウィキペディア記事の訂正を求める人を「検閲」と称して「つるす」行為が行われているようです。他、「エントリーされている記事の信頼性の間に、不均一がうまれることを原理的に解決できない問題として持っている。例えば、哲学の記事などはかなり悲惨」など、僕が使ってみて感じることも率直に語られていて好感が持てました。

先のエントリの山形浩生にも通じるところだと思いますが、フリーウェアのコミュニティ出身のひとたちには、ある種のコミュニズム的な感性を根強く持っているような気がします。彼ら、とひとくくりにはできないでしょうが、が一般的に持っている楽観的な未来志向は、ネットコミュニティが成熟することによる「ユートピア」の形成と不可分なものでしょう。そこでは、「私有」に固執することは、彼らが求める「クールさ」とは全く正反対のことであり、ネット社会全体の進歩的な発展こそが最も望まれるものである。こうした文脈で、「ブルジョワ」的な権威主義もまた排斥されるのでしょうか。

最近の僕の懸案事項である「私的所有」の問題も含めて、彼らの方向性に可能性を感じないわけではないのですが、しかし、それでも主体性をすべて匿名的なエレメントへと回収しようとするのはいただけない。必要なのは、「主体性」や「所有」といった概念を刷新することなのではないかと思うのだが、どうだろうか。