閉塞の箱

遅れましたが、あけましておめでとうございます。
今年もブログをつづけようかと思います。

さて、年末年始と、普段あまりテレビを見ないので、その一年テレビで流行ったものをまとめてチェックするようなことが恒例となっているのですが、今年の印象は、閉塞したテレビ界自体の「深さ」みたいなものができてきているかなということでした。

これだけいってもわけわかんないですが、つまり、「波田陽区」や「細木かずこ」といった新たな視聴率メーカーに共通に感じられたのは、ワイドショーばりに芸能界を客体として捉えつつ、それ自体がある種のテレビ的なエンタになっているという構造ですね。つんくが「モーニング娘。」(なんとPC上ではじめてこの単語を変換したのですが、「もーにんぐむすめ」で、最後の「。」まで一発変換されるようになっているのですね!知りませんでした)をプロデュースしたときから何となく始まっていた動きだと思いますが、「芸能界を客体としてみる」メタ的な視点自体が商品の中に埋め込まれて、それが好ましい価値形態として消費されるようになっている。これは、ある側面から見るならば、これまで平面的な情報媒体だったテレビが、消費者自身の環境を取り巻く立体性を獲得したとテレビ史上(あるいはメディア史上)において、肯定的に捉えられるべきことなのかもしれません。が、僕自身は、テレビが自己完結する閉塞性が強まってきたと思ってしまいました。

そもそも、映像メディアとは、いまさらながらのマクルーハンがいうように、ある強度において主体の主体性を否応なく巻き込んでいくものですが、テレビにおいては、その巻き込みが「大衆的コモンセンス」とでもいうべきものに落ち着くようになっている。このあたり、どういう歴史的な過程を経た結果なのか、しっかり調べてみないとはっきりしたことはいえませんが、しかし、とりあえず現状では、あらかじめ「異他的」なものが排除され、どのような番組でもある調和した世界観からはみだすことが許されないようになっているわけですね。そうすると、ある程度テレビの世界になじんでくると、そのひどく簡略化されて平板な世界の作法だけを守ればそこに安息でき、その安らぎを不安にさらすような情報に目を向けられなくなるといったことがおこります。よくいわれることではありますが、ニュースで伝えられる情報は、どんな厄災であれ、お茶の間で「あら、大変ねぇ」という所作でやり過ごすことのできる平板なものに変えられるわけですね。事柄自体が持っている肌理や襞に立ち入っていかずとも、テレビに囲まれた世界で生きていくためには、おきまりの「人間性」を感受できればそれでよいことになるわけです。

そんなこともあって、7、8年ほど前からテレビを見なくなっていたのですが、僕がそうしている間に、テレビは自己進化を果たそうとしている様子がうかがわれました。つまり、テレビ世界自体がメタ的に構造化されて、そのメタ性が新たな商品とされることで、「平板な情報」がそれ自身において立体性を持とうとしているわけですね。それがよいことなのかどうか。最近つとに進んでいる社会の二極化で、「大衆」という概念自体が今後どうなるかわからないわけですが、そのなかでテレビが今後どのような機能を果たしていくのか。しばらくは、年末年始のまとめ見を続けなければならないようです。