私的所有は侵さざるべき人間の権利か?

「みんな自分のことでがつがつするのはやめて、他人と協力しながら生きていこうよ」。今の社会で、そんなことをいうやつがいたとすれば、それはよほど育ちがいいか、単におめでたいバカであるのか、どちらかだ。生まれ落ちたときから、「平等」の名の下に、一斉スタートの競争にエントリーされる現代の社会において、「人々の間の協力」を道徳面して叫ぶ輩は、「他人」の領域に土足で踏み込む「うざい」やつとして認識されるか、あるいは「ノーマライゼーション」によって作られる「ノーマル」な人々の社会の中で、自分もまた「普通」に扱ってくれよと要求する「同情すべき人」として見なされるだけである。いずれにせよ、他者との「共生」を謳う文句は、社会の構造的暴力に対して何の変革ももたらさないままに、ただ勘違いの慰めをもたらすにすぎない。だから、そんな言葉を聞いても、ああまた偽善者がいるよ、と思うだけで、我々は普通、心動かされることはないのである。マルクスについて書かれた最近の入門書もまた、まずはその類のものと予想されるかもしれない。

「自然の施し物」は、みんなのものであって、土地を柵で囲んで所有を主張するやからが、貧しい人々をより一層貧しくしているのだ、といったマルクスのライン新聞における人道主義的な記述を手がかりにしながら、「私的所有」概念の矛盾を告発する大川の手法は、マルクスよりさらに昔、ルソーがロックに対して展開した批判にも通じるものである。だが、そうした批判は、ルソー、マルクスと長い歴史を持つものであるがゆえに、それが私的所有についての根源的な批判になりえなかったこと、ひいてはそうした思想がときに社会的な暴力すら引き起こしうるものであること(ルソーの過度な人民主権は、ロベス・ピエールの元祖テロリズムの基底になったし、マルクス共産主義もまた、おそらくは単なる偶然とは言い逃れできないかたちで、「共産制」の暴力を証立てることになった)をも同時に我々に思い出させる。我々の人間性に強く訴えかける記述も、苦労を知らない無垢な若者にこそ「見果てぬ夢」を描き出すこともできるだろうが、すでに幼児期において疲れ切った「大人」の感性を持たせられる、世界の現状において、どこまで力を持ちうるものなのか、甚だ疑問に思う。ここでもまた、前衛をきどった偽善者が、という観念が頭にもたげてくることになるのである。

だが、この本は、そうした偽善に止まるものではない、と考える余地を残している。共生だの共産だのといった偽善に対する、もやもやとした疑念の中にも、ここには、なお考えるべきものが提示されていると考えることができるのである。それは、「社会的身体」という事柄である。こうした概念は、もちろん、すぐにでもルソー的な「人類愛」へと結びつきうる危険なものである。だが、それでもなお、その概念を論理的に規定する道筋は残されているように思えるのだ。

現在の近代国家が、ロックがいうような私的所有する個人をベースに考えられていることはいうまでもない。個人の自由と平等は、そこでは、個人とその財産に対するものとして規定されることになる。だが、哲学の歴史を繙くまでもなく、そうした私的所有概念は、イギリス経験論&プロテスタント的な背景を強く引きずっているものであり、かつての形而上学に取って代わるような哲学のもとにしっかりと規定されるものではないのであった。では、ロックを敵にまわして、何がいえるのか。それは、「個人」そして「所有」といった概念を規定し直すことであろう。おそらくは、「所有」なしに「個人」を規定することは可能であり、「私的所有」とは異なった仕方で「所有」は規定されうる。この本は、もしかしたら、こうした事柄を通じて、我々の「近代」を本気で考え直す機会を与えてくれるのかもしれない。