「受苦者のまなざし」の重要性?

受苦者のまなざし―初期マルクス再興

受苦者のまなざし―初期マルクス再興

学部学生の頃よんで非常に感銘を受けた『マックス・ウェーバー入門』の山之内せんせのマルクス論というので、謹んで読ませてもらった。が、もうひとつドカンとくるものがなかった。

主張は明確で、初期マルクス疎外論的な論点は、後期における経済システム論によって乗り越えられたとするアルチュセールや広松といった、今日では「ポストモダン」の運動に回収され突破力を失っていると山之内がいうところの解釈は、『経哲草稿』を低く見積もりすぎで、むしろ、後期の経済決定論では切り落とされてしまう論点を残している点で、やはり『経哲草稿』重要だ、というもの。従来の「物象化論」や「最終審級論」による初期マルクスの乗り越えは、『経哲草稿』の第一草稿に大きな足場をもった1950年代の解釈に対しては有効であるが、しかし、それは第三草稿の重要な論点を見落としている。経済学の勉強とほぼ平行的に書かれていた『経哲草稿』は、各段階でリカードなどの経済学者に対しても、ヘーゲルなどの思想家に対しても、かなり評価の移行があるもので、特にきちんとヘーゲルの『精神現象学』にシンパシーを持ちながら書かれた第三草稿は、ヘーゲルの「歴史」の審級を高く評価しながら、私的所有を生じるような「労働の廃絶」まで説き及んでいる。山之内によれば、昨今隘路に陥っている「ポストモダン」的なマルクス解釈が見落としているのは、こうした「歴史性」であって、単に経済システムの共時的な構造のみを論じているだけでは、こうした「歴史性」の観点は出てこないといわれることになるのである。

さて、本書の主張すること自体については、至極妥当なものだと思う。いや、山之内先生そのとおりです、といいたい。つまり、個的な視点から「私的所有」を論じるような場面、すなわち、人間は自己自身を疎外し生産するのであるが生産されたものは自分から隔絶してしまうなどと、個的な自己を起点にして労働を語るような場面(323)、あるいは、そこから出るような、労働者は自己の労働によって価値を生み出すのであるが、それを十全に受け取ることができず搾取されているというような論点は、存在論的に、あるいは「生態学的(エコロジカル)」な視点によって克服されて、最終的に「私的所有の止揚」すなわち「労働の廃絶」にまで至らなければならないというのは、そのとおりだと思う。だが、しかし、まさにそのとおりであるがゆえに、なぜそれが後期マルクス史的唯物論から区別してとりわけ重要であるのかが、説得力を持って見えてこないのである。

山之内は、広松やアルチュセールなどの「ポストモダン」な解釈は、ヘーゲルのいうような「自己意識の倦怠」に陥って、とりわけ「歴史」への着目を欠いているというのであるが、しかし、それはかなり偏った見方であろう。山之内の批判は、老いてなお熱い情熱を感じさせる小気味よいものであるが、しかし、批判のポイントが絞り切れていないために、鋭さを欠いているように思える。単純にいって、後期マルクス史的唯物論とは、まさに「歴史的」な唯物論なのであって、まさに山之内が指摘するような歴史性を欠いたものではない。少なくとも、「序」で語られるような「ポストモダニズム」の無歴史性の批判は、山之内が描く「ポストモダン」がどのようなイメージのものであれ(それについては、あまりにも大雑把なまとめしかなされておらずイメージとしかいいようがない)、後期マルクスを経済学批判の完成とみる向きに対する批判とはならないように思われる。もう一つの批判の論点としての、経済決定論の「俗流マルクス主義」的解釈の不毛についても、ベンヤミンを用いたところで、単に「俗流」を廃するという論点しかでてこないはずである。そこに、後期テクストの歴史性の意義を理解しようとする視点は皆無である。後期ではなく前期へという山之内の主張は、マルクスウェーバー的に読みたい文脈においては都合のよいものかもしれないが、しかし、到底公平な解釈とはいえないように思えた。重要なのは「歴史」を、単なるヘーゲル流の「歴史哲学」から切り離して、どこまでも括弧付きなものにとどまるとはいえ「科学的」なやり方で検討することなのではないか。少なくとも、それ自身大きな問題をはらんでいるヘーゲルの「歴史」概念に依拠してマルクスの「歴史」を汲み取ったと考えるのは控えなければならないような気がする。そのように考えるならば、山之内が指摘する第三草稿のヘーゲルの再評価とは、むしろ前期の個的な視点から、後期の存在論的な視点へとの移行の段階にあるものであるという評価をする方が妥当であるような気がした。