管野覚明「靖国神社で、天皇主宰の慰霊祭を」(『諸君!』H17年1月号)

『諸君!』でこうしたタイトルが付いていたら誰でも右翼系、それもタカ派の急進的な主張が展開されていると思うだろう。だが、読んでみればひどく真っ当な議論であることがわかる。

「戦争の一番難しいところは、その終わらせ方にある」とクラウゼヴィッツの『戦争論』を引きながら管野は、戦争の終結には、単に客観的に戦闘が終わる以上に、当事者全員が主観的に終わったと見なす必要があるという。そして、まさに戦争を終わらせるために、「天皇主宰の慰霊祭」がなされなければならないというのである。しかし、それは、戦争に勝った側も負けた側も等しく戦没者が納得して戦争を終えられるようなかたちでなされなければならない。

こうした議論が興味深いのは、今日の新聞レベルでの硬直した対立図式を、自由に乗り越えているところである。問題は、宗教と政治の同一化にあるのではない。歴史の引き受けは、戦前の行いを単なる「過ち」として、あるいは「今では信じられない行為」として、対岸に追いやりながら、理性的になされるものでは決してない。戦争の記憶を「忘却の穴」へと追いやっているのは、戦争を身に引き受けられないほどの「厄災」へと追いやった戦後の優等生左翼たち自身ではないのか。歴史を引き受けるためには、有機的な弔いの作業が必要不可欠であるといわなければならないだろう。そして、その上で、その弔いが、国家神道イデオロギーに毒されないようにすることが必要なのだ。管野氏の論文は、そうした点に議論を開いていく非常に生産的なものであるように思われた。