学内身体論研究会

学内の身体論研究会に出席する。「身体論」といっても確たる定義がないような状態で(京大にある研究所も成果を見る限り単にカルスタの分派のような感じ)、なかなかに議論を積み上げるという情況には至っていないが、いろいろな分野のひとが参加して、各々の材料を提示していくというやり方は、駒場のCOEの研究会のときもそうだったけれども、きちんと収斂さえしていけば結構面白いかもしれないと思う。

今回からNHKのドキュメンタリー畑出身の先生が参加され、メディアの作り手と受け手の間の隔絶を問題として提起していた。曰く、メディア・リテラシーの授業をすると、学生が番組の背後に作り手の存在を全く意識していないことに驚かされる、とのこと。それは番組制作実習でも同じで、自ら作る側にまわったときでさえ学生は、メディアを平面的で透明な媒体としてとらえ、取材をすることによってそこに作り手側の「表現」が否応なく介在することに意識することはないのだそうだ。

そうしたメディアのメディア性のようなものを、「身体」というキーワードで捉えたいというのがその方の趣旨だったが、現場でやってこられた方のそうした感性に感嘆しつつも、それに対するT先生のコメントに大いに首肯するところがあった。すなわち、今の学生は、授業などでも情報に対して受け身的で、いろいろなものを「与えられる」ことに慣れすぎているが、そうした傾向には、他ならぬテレビの影響がひとつの大きな原因としてあるのではないかとのこと。

そうした話を聞くに、僕などはつい自分の関心にひきつけて、「認識論的な動物化」の傾向*1を考えてしまうけれど、それってやはり、とりわけ「身体」というものが、「個人主義」的な方法論の中で「個」の中に封じ込められていることに起因するのだと思う。

学科再編やら何やら事務仕事でバタバタと忙しい時分に発表を引き受けてしまったので、そのあたりをなるべく専門的な前提を必要としないかたちで、まとめてみようと思う。

*1:紛らわしいから付言しとくと、東浩紀は、ボードリヤールやらコジェーブやらを「状況証拠」として、それを「ポストモダン」と同値に考えているけれど、それは主体性の欠如という「ポモ」の大きな特徴を捉え損ねているので、ここではとりあえず無視