第二十五回 哲学/倫理学セミナー@光合成
今日は朝から蒸し暑い日が続きそうですね。
ふと水鉢をみると、強い日差しに水草がそこここで光合成し、盛んに空気をはき出していました。それを巡って金魚が水鉢の中を動き回る。
また、ご案内が遅れましたが、今日は哲学/倫理学セミナーです。
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思考のラディカリテートを、単に表面的なアクチュアリテートの
みを追い求めることなく、その歴史の〈深さ〉に探り当てていこう、
そのような趣旨で立ち上がりました「哲学/倫理学セミナー」も、
下記の通り、第二十五目を開催する運びとなりました。引き続き、
東京大学倫理学科の熊野純彦先生をお迎えして、皆様と議論を深め
ていきたいと思っております。ご参加をお待ちしております。
記
第二十五回例会 平成17年6月25日(土)
於 東京文化会館 中会議室2
(http://www.t-bunka.jp/around/around.htm)
14時から16時50分まで
発表 「悪と超越―レヴィナスとナベール―」
中 真生
プロティノスやアウグスティヌスをはじめ多くの哲学者は、
存在が善であるのに対し、悪を、非存在、あるいは存在の
欠如だと考えてきた。他方でマニ教やゾロアスター教は、
これに抗して、悪は善とは独立したもうひとつの原理だと
考えた。ところがレヴィナスの悪の考察は、このどちらに
も与さない。彼にとって悪は、善の欠如ではなく、却って
善を超え出る過剰、超過である。さらに悪はその超過によ
って、他なるものとの関係というレヴィナスにとっての真
の善へと道を開くものである。こうした悪は、「私」の身
体的苦しみを通じて考察される。悪の問題を、悪を被る者
の視点から離れて、正当か否かと客観的に判断するものと
考えないのが、レヴィナスの悪の考察の特徴である。
この立場を共有しているのがナベールである。ナベール
は『悪についての試論』で、悪一般を考察するのではなく、
私が経験するものとして、具体的には罪の感情として悪を
考察する。ナベールにとって悪は、何よりも私が「正当化
しえない」と感じるものなのだが、罪の感情は、自らの過
ちにとどまらず、自らの力を超えた「正当化しえないもの」
にまで及ぶ。「正当化しえないもの」は、道徳規範によっ
て判断することも、私の認識能力によって理解し尽すこと
もできない。これらを超えたもの、この意味で超越である
と言える。レヴィナスとナベールの思想の差異を過少に見
積もることはできないが、それでも悪についての考え方に
はある共通点があるように思える。
*今回の発表は、5月の日本哲学会での発表原稿に、「レヴ
ィナスにおける無限の観念と超越」という小論を加えたもの
になる予定です。
参考文献
・「無用の苦しみ」
「われわれのうちなる無限の観念について」
(レヴィナス著『われわれのあいだで』法政大学出版局所収)
・「超越と苦痛」
(レヴィナス著『観念に到来する神について』国文社所収)
・レヴィナス著『全体性と無限』(国文社)特に序文
以上
なお、お手数ではございますが、会場の手配の都合がありますので、
第二十五回研究会に出席いただける場合には、ご一報いただければ幸
いです。
■(予告)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
第二十六回例会 平成17年7月30日(土)
於 文京区区民センター 3-D会議室
(http://pe-seminar.hp.infoseek.co.jp/map.html)
14時から16時50分まで
発表 「歴史の持つ力(仮)」
佐藤 香織
参考文献
レヴィナス『全体性と無限』(合田正人訳、国文社)他
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