マグダラのマリア

娼婦として、悪霊にとりつかれた「罪」をイエスに清めてもらったマリアが、身をなげうって主に仕える。宗教画のある種典型ともいえる画題なはずなのに、新訳の正典をいくら読んでもその具体的な記述に当たらない。そんな、門外漢ながら不思議に思っていた謎が解けました。

なんでも、僕はきちんと読んでいなかったのですが、グノーシス主義の影響のもとに書かれ、「外典」とされたものには、マグダラのマリアは、復活したイエスに一番最初に立ち会う、「イエスの伴侶」として「最も天国に近いもの」とされているものもあるそうで、「正典」に見られる女性蔑視の傾向とは全く反対に、外典には、女性を理由にマリアを信用しないペテロがイエスに諭されるなどの記述があるとのこと。つまり、初期キリスト教でのマグダラのマリアは、ルカなどに「イエスに悪霊をはらってもらったもの」という記述があるものの、決して「娼婦」や「罪深き女」のイメージは重ねられていなかったのですね。

これがルカの別の場所に出てくる「罪深き女」に重ねられるのは、7世紀前後の教皇大グレゴリウスのときで、ここでマグダラのマリアに取り憑いていた「七つの悪霊」が、七つの大罪を表すという解釈も成立する。そして、9世紀ごろに成立したという「エジプトのマリア」との重なり合いが付け加わって、「娼婦」としての「マグダラのマリア」、自己の罪を自らを鞭することによって償おうとするサディスティックな「マグダラのマリア」が成立する、というわけですか。いやはや、単に原典をあたるだけでは見えてこないことも多いなぁと、感嘆した次第でした。