ゴッホ展をみる

演習・実習で、近美のゴッホ展を学生と見てくる。

昨日はチケット買うのに40分、入るまでに120分とキチガイ沙汰だったみたいですが、今日は折良く降ってきた雨のおかげか、15分くらい待っただけで入れました。

精神年齢が異様に若い彼らが、どれほどのものを吸収できたかは、来週にならないとわかりませんが、しかし、あんだけ混んでてもやっぱりすごかった。晩年になるにつれて深まってくる異様なほどの空間感覚が、胸を押し上げて広がる感じ。当たり前ですが、並べて展示されていたセザンヌの独特の遠さの感覚との違いは明らかで、そうした違いがどこに由来するものなのか、いっぺんきちんと考えたくなってしまいました。

というわけで、来週の授業の資料に使えそうな文献をクリップ。

マルタンゴッホ論を書き、訳まで出ているとは、恥ずかしながら知りませんでした。テーマごとに過度に思想的にならずにまとめているところは好感が持てた。ただ、各論という形式のために、各々それなりに画布の上で物体が形成される動的なメカニズムのようなものが描き出されているものの、全体としての重層感に欠ける気がしたのは、僕が単に速読したからか。

晩年のサン・レミでの時期に描かれた、ゴッホの一連の「模写」作品を取り上げ、オリジナルとコピーとの関連を考える論考。アカデミーによる模写学習を、一旦批判した上での「模写」ということで特異な問題だというのであるが、なんか個人的には、

の方が同じ模倣を扱ったものでも面白く感じられた。

こちらの「模倣」は、ゴッホという作家の日本での消化・吸収のされ方を、西洋文化移入という広いスパンで考えようという意欲的なもの。森鴎外『椋鳥通信』におけるドイツの新聞のコピぺから始まり、白樺派の熱狂を経て、木村荘八岸田劉生の「卒業」、式場隆三郎の狂気の神話化、小林秀雄や三好十郎の文学領域への囲い込みなど、日本に一度もオリジナルがやって来ていないにもかかわらず、いかにゴッホ「複製」分化なるものが日本に定着してきたのかが語られる。なぜこんなに日本ではゴッホが好かれるのか、翻訳文化との絡みで理解させてくれる好著。