『思想』4月号

所収の染谷氏の論文「知覚は誤らない−認識へのエコロジカル・アプローチと知覚の倫理学」(上)(下)(上は、3月号に所収)について、批評めいたものをここに書く、と約束したのですが(染谷氏とは、昨年度の駒場のシンポでギブソン実在論的解釈を巡って楽しく議論をさせてもらってから、架空団体「生産的議論による論文業績最大化研究会」の同志なのです(勝手に))、読んでたら、結構他にも気になる論文がでていたので、まずはメモ的に。ざっと読んだ限りで。

  • ジョゼ・ブルンナー「傷つきやすい個人の歴史−トラウマ性障害をめぐる言説における医療、法律、政治」

著者を知らなかったので調べたら、テルアビブ大の人(http://www.tau.ac.il/law/josebrunner/)でした。「傷つきやすい個人」という、川本(隆史)系の「やさしさ」をプンプン臭わせている語が題名についているだけで、スルーしようかという論文なわけですが、トラウマとは政治的なものであるというテーゼにひかれて読んでしまいました。結局、要は、9.11やテロなどの政治的な事件と、トラウマ形成が密接に関わっているということがいいたいだけなのかという気もしたが、トラウマという概念が形成された歴史的(政治的)な背景に振り返っているのは好感が持てました。ただし、(勝手に)期待していた、社会制度的精神分析なる可能性については、(当たり前だけど)全く考えていないのですね。

フェミニストの議論におけるトラウマと犠牲者の側面を強調する方向へのこうした転換は、フェミニスト・サークル内部からの批判も受けないわけにはいかなかった。…なぜなら、私的なことは政治的であるというフェミニストたちのよく知られている主張に反して、市民社会のトラウマのポリティクスが行う主張は、政治的なことは私的である−したがって、いつでもトラウマをもたらしうる、というものだからである。[31]

フェミニストたちが、パーソナルな次元の事柄を社会レベルへと押し出して闘争するというときも、「社会」ということで近代的に平板化した市民社会を想定している限りにおいて、どうにも無批判な人たちだと思わざるをえないのですが、トラウマを「社会」との接続において考える場合にも、社会(とそこで起きるイベント)を、傷を受ける個人と切り離された原因としてのみ考える点において、なんとも作為的な問題設定がされている気になってしまいます。トラウマが、社会において直接的な因果関係が確定しづらい仕方で刻まれる傷なのだとしても、批判の矛先を、構造的に「傷」を沈黙させる社会にのみ向けたとするならば、「傷ついた個人」は、「弱者」という聖域に安穏とした無批判なものに止まるでしょう。傷を負えば偉いのかよ、みたいな。「傷」が社会によってつけられたものであれば、それは社会的な次元における「治療過程(=改革)」を通してしか癒されることはないというのは、全く持って賛成するのですが、しかし、そのためにはその「個人」と社会との関係を批判するのが大切なのであって、「無力で傷つきやすく、苦悩を抱えた」人を、お節介に助けてあげることだけが必要とされるわけではないでしょう。その辺、もはや「典型的サヨ」の枠組みを外して考えてもよいのではないでしょうか。

といっても、ネグリ=ハートは関係ない。表題は、アダム・スミスが「共和主義者」であることを強調するためのもの。ポーコックが展開する「シヴィックヒューマニズム(共和主義、あるいは公共的人間主義)」論を敷衍し、スミスへのアプローチには、自然法的アプローチの他に、共和主義的なアプローチもあるということを説く。スミス研究の上での具体的な争点に明るくないので、きっちりと論点を判別できたわけではなかったが、グロチウス以降の近代自然法思想の内面的規範性の議論をもとにスミスを考えるだけでなく、共和主義的なアプローチも考えなければということか。と、なると、個人的には水田@『アダム・スミス研究』=ロイ・パスカルスコットランド学派におけるルソー主義の影響の指摘とどう違うのか、ということが問題にならざるを得ないのだけれども、そのあたりはポーコックの「シヴィックヒューマニズム」概念をきちんと見なければわからないのだろう*1 *2 *3

ともかく(というのも、本論では、スミスの政治的な位置づけが問題になっていて、その理論的な規定が前提とされているのかいまいち判明ではないからなのだが)、自然法と共和主義の総合としての経済学の成立、というのが、ケンブリッチの経済思想史家たちの有力なテーゼだったということは、きちんと把握しておかなければならないことだとは思わされた。

ロックのプロパティ概念の成立を、ロバート・フィルマーの家父長制論との間の論争に見る。フェルマーなどきちんと読む気もしないので、論争過程を丹念に追ってくれるのはありがたい。しかし、ひょっとしたら僕が門外漢だからなのかもしれませんが、この論文が何らかの問題をきちんと論じているのかどうかについては、ちょっと疑問でした(『統治二論』が、フィルマーとの論争にあてられているのは周知のことだし)。

とはいえ、門氏の指導教員と思われる前述の田中氏にも出てきた、自然法の神中心的解釈と個人中心的解釈の移りゆきみたいなのが、フィルマーとロックの間に見て取れたのは興味深い。

市民社会以前の自然状態を支配する法は自然法であり、自然法は理性によって啓示される。…また人間は神の作品であるという点で、神のプロパティであるため、神意によって存在している。そのため、人間は自らの存在が脅かされないかぎり、他の人間をできるかぎり保存すべきである。ところがすべての人間が自由であり王である状態は、他人による権利の侵害にさらされ、プロパティの享受が不確実であるため、人間は社会と結合するに至る。[141]

ここでは、神のプロパティと人間のプロパティが、劇的なまでに混濁した様相を呈しているように思えます。門氏自身は、引用中の「ところで」で、どのように論理が展開しているのかについて、どこまで自覚的であるのかわかりませんが、個人的には、フェルマーとロックの論争を扱うのであれば、両者の言い分をそのまま要約するだけでなく、どの点で両者が交錯しているのかをもうちょっとわけいって書いてもらえるとうれしかった。

*1:J.G.A.Pocock, Politics, Language, and Time, Atheneum,1971.

*2:Donald Winch, Adam Smith's Politices, Cambridge.U.P.,1978.

*3:Istvan Hont and Michael Ignatieff eds., Wealth and Virtue, Cambridge U.P.,1983. 水田洋・杉山忠平監訳『富と徳』未来社、一九八九年