ウェブに書くということ

書かれたものは、書かれた瞬間に書くものの手を離れ、匿名の空間に投げ出される、とは、エクリチュールを巡る現代思想の十八番みたいな定式(かなり乱暴ですよ、もちろん)ですけれど、ブログとかコメントとかで話すことと同じ感覚で簡単に書けるようになってくると、結構ドラスティックな問題を提示するように思われます。

『全体性と無限』におけるレヴィナスのように、一義性が確保されなければならないみたいなことはいわないにせよ、一般に書かれたものよりも話されたものの方が、文脈依存度が高く、ピンポイントで意味を発生させればそれでよいと見なされているのであれば、それが同時に書かれることによって多元的な解釈の可能性に開かれるということは、かなりの危険が伴うことになるでしょう。ドゥルーズのように、発言責任が帰着される人格なるものもまた、結局仮構されたものなのだから、どのような表現もすべての事象と横断可能になるのは当たり前と割り切れるならばよいのですけれど、様々な「イデオロギー」によって、実際に社会的な責任をとらされてしまう可能性があるわけだからやっぱり怖い。将来的には、自分でウェブに書くことで「ソニック・ブーム」を引き起こしてしまったり、そうではなくとも、よくある芸能人的な人格の乖離現象(マリリン・モンローとノーマ・ジーンとか)みたいなのに陥るひとも出てくるのではないでしょうか。