近代の癒しがたい病

今度の発表準備のため、ブログの方もあんまり進んでませんが、たのんでいた本が届いたので、ざっとメモ。

最近の経済学の動向っていうと、やっぱりこの人もはずせませんか、ということで、はじめてこの本に真っ直ぐ向き合ってみたのですが、なるほどカラクリがわかればそれほど抵抗なく、というかむしろ面白く読めました。

いうまでもなく、センは、経済学を学びながら、パレート最適がリベラルと対立せざるを得ないとか、古典期の経済学において結びついていた「道徳性」(アダム・スミス等)を現在の経済学でも語ろうとした人、なわけですが、まあつまりそれって、訳者の大庭・川本両氏がそれぞれ指摘しているように、新古典派経済学が築いてきた科学主義の牙城を、古典派経済学の枠組みを復権させることによって打ち壊そうとするものなわけですね。ミルやスミスの道徳性など、あまりにも川本さんの好きそうなフィールドでXXXですが、しかし、実際経済学をやってみると、そういいたくなる気持ちがよくわかる。つうか、よくもまあ頑迷な科学主義経済学者に対して、こういった主張が受け入れられたな、と感心してしまいました。いまやノーベル賞受賞者ケンブリッジ教授だものね。そこら辺の政治状況はどうなっているのかよくわかりませんが、しかし、経済学の歴史をさかのぼるに、古典派・功利主義で止まるのはどういったことかとも思う。本人、アリストテレスにさかのぼったと自負しているようですが(涙)。このあたり、やはりヘーゲル等の近代の「乗り越え」を持ち出すことに対する拒否感が、特に英米系の研究者にいまだ根強く残っている気がします。

ひとが達成する機能を理解しようとすれば、ひとの諸条件に関して非市場的な直接観察を広範に用いようとするのは自然である。……厚生経済学がこれらの重要な《善き生》の構成要因を無視する傾向は、この学問分野の際立った限界の一つである。……友人をもてなす能力・会いたいと思うひとの近くにいる能力・コミュニティ生活において役割を果たす能力などは、アメリカやイギリスのような豊かな国においてすら個人間で大いに異なりうる。(セン『財と潜在能力』
65頁)

こうした「善き生」にまつわる話を、多大な感傷をもって(この後に宮沢賢治を引いてくる感性といったら!)すぐさま道徳的な説教へと流れてしまう訳者川本には辟易するしかないが、その論理的な構造だけをうまく使えば、もしかしたら枠組みごとうまくひっくり返すことができるかもしれないと、ひそかにニヤリとしてしまいました。

いわゆるフツーの経済学を知りたくて買ったのですが、あんまり新しいことは書いていないようでした。つうか、原理というよりも例解ですね。経済学部を出るというのは、そういうことを勉強することなのでしょう、か。もちろん、断定はできませんが。

クリントン政権下で経済諮問委員長だったスティグリッツのグローバリゼーションもの。まあ、結論は、幸せなグローバリゼーションを目指しましょうといった凡庸なものだが、率直な語り口は、写真のいかがわしさに比して、印象よし。しかし、原タイトルは'Globalization and its discontents'だから、売れそうなタイトルつけ直すもんだよねぇ。