なぜ、日本のメディアは平面を目指すのだろう

メディアが伝える情報について、いつも異なった視点を提供してくれる極東ブログさんより。

国連の組織としての不正を日本のメディアは扱わない、というエントリは前から極東ブログさんが書いてきたことだが、今回は実際の朝日記事のゆがめ方も書かれていたので興味深かった。

こうしてみると、朝日は懸命に、「アメリカVS国連」という対立図式を示すなかで、アメリカ=悪者、国連=善というイメージを死守しようとしていることがわかりますね。関係ないけど、鹿島茂の新著、怪帝ナポレオン3世で批判されているような「プロレス史観」と似たようなものかもしれない。しかし、世界という複雑な事象を、なぜ、紙相撲のような平面的な対立関係でおさえなければならないのか。現状で思いつく理由はふたつ。

ひとつには、体制VSレジスタンスという善悪の対立を作った方が「闘争」をオルグしやすいということ。思想系のいい子ちゃん左翼にもみられる現象で非常に嘆かわしいが、いいかげんそのこと自体の暴力に気づいてほしいところですね。

「成熟していない」という意味では同じかもしれないが、もうひとつは、日本の「大衆」が(そんなものあるとして)、それしか受容できないということもありうる。「容疑者」といわれただけで「犯人」と見なしてしまうようなメンタリティでは、「国連だってそういうことあるよね」と思うことができないわけですね。しかし、そんな、悪を自らのうちに受容できない「素朴で善良な大衆」みたいな観念はどこから生まれたのだろう。それは、何らかの「成熟」の過程を経れば解消されるものなのか、あるいは、それ自体が何らかの操作によって出来上がっているものなのか。そういう点にこそ、哲学が必要とされるようにも思えた。