取材源の秘匿

IT関係の弁護士のブログから。この人の書くことは、他の記事も含めて、いまいち自分のクライアントよりのところがあって、公平性に欠けるような気がしますが、話題としては面白いかと思って引いてみます。

他のブログでも話題になってましたが、大谷昭宏氏が「フィギィア萌え族」なる用語を用いた根拠について、公開質問状が出された事件で、その回答が、ジャーナリズムにおける取材源の秘匿を根拠にしたうやむやなものであったことに対する批判。

2.「フィギュア萌え族」を「脱人間的」「没人間的」とされた論拠を示してください。 具体的にどのような観察、 どのような資料に基づくものであるかを示していただければ幸いです。

に対する回答が、

2. 取材ソース、取材データ、取材対象に言及できないことは、自明、周知の事柄と考えております。

では、あんまりだろうということですね。この点に関して、小林弁護士は、

自分が作成した記事に対して「説明責任」を有するというのが、米国のジャーナリストの基本です。「取材ソース、取材データ、取材対象に言及できないことは、自明、周知の事柄」では全くないのです。むしろ、その逆です。特に問題とされている大谷氏の記事に関して言えば、取材源を秘匿することを約束しなければ入手できなかった情報をもとにしていたとは考えがたいですから、このような記事に関し、「取材源」、といいますか記事の根拠を明示できないとすれば、米国においては、ジャーナリストとしては失格です。

というわけです。「米国スタンダード」的な論調はおくとして、僕も全くいうとおりだと思いました(このことを枕にして「情報源を追求するだけの資金力のあるマスメディアの重要性」なる問題にうつる小林氏の論にはどうにも飛躍があるような気がしましたが)が、しかし、このことで重要なのは、「取材源秘匿」の原則と「説明責任」の間の微妙な差異にあるような気がしました。

一方で取材源を秘匿しなければならないのは、どのメディアでも共通した原則だと思われるのですが、それをかたにして説明責任を逃れるということがあるのは許されない。そこで問題にしなければならないのは、実はメディア自体の主体性でしょう。「A子さんがいうには」といって記事する際、その件で事実説明の責任をもつのは、メディア自身なのではないか。メディア側が「私はA子さんがいうことをそのまま記事にしただけ」という偽装された「透明性」の態度で出るならば、そこではだれも記事の責任をとれないことになってしまう。ブログでもなんでもひとつのメディアですが、こうしたメディアを通じて物事を伝達する場合には、その伝達する側の人がメディアとして主体化する必要があるのではないか、そして、そのことにはマスメディアもネットメディアも関係ないのではないか、上のエントリを読んでそう考えました。