搾取率95%?

昨日のニュースで、例の青色LEDの訴訟の件を報じていましたが、家と主体の関係を考える上でも興味深いのでとりあげてみます。

渦中の中村さんは、和解しながらも憤懣やるかたないといった感じでしたが、彼の怒りのポイントは、新聞などで見る限り、ふたつ。個人としての発明の対価に妥当する金額のオーダーを、裁判所があらかじめ決めていたのではないかということと、「日本」の企業はアメリカのそれにくらべて癒合的であるということだったと思いますが、私見では、前者の方の筋は通っていても、後者は自分にとっておいしい理屈だけを拾っているようにも思えました。以下、順をおってみます。

まず、前者。これは、ぶっちゃけていえば、億単位で金がもらえるんだから個人としては充分だろということでしょうが、もし裁判官が本当にそうした予断から対価5%という金額を出しているのだとすれば、それはあまりにも脆弱な根拠だといわざるをえないでしょう。もし、主体的な個人を経済活動の基礎として考えるのであれば、その個人が得るべき対価に何らかの世間的な限度を設けることはできないはずだし、反対に生産活動の主体を企業という形態にだけ求めるのであれば、そもそも発明の対価という観念自体が発生することもない。95%という企業の「搾取率」の提示は、何の理論的な根拠ももたない蓋然的なものだといわざるを得ないわけです。

個人の会計において流通している価値の尺度と法人の会計におけるそれは、現行の社会においては、曖昧なままに分離され、まさにそのことによって企業における搾取を可能にしている、とドゥルーズ=ガタリなんかもいってましたが、今回の判例も、そうした社会の構造を無根拠に追随した結果であるといえるでしょう。ひらたくいえば、大企業に勤めているひとならば、ときには100億円単位で取引をすることもまれではないわけですが、そうした価値の尺度は彼が個人として生きている価値の尺度とは全く別のものとして認識されている。だとすれば、同じ円という尺度で異なった二つの次元がはかられていることになるわけですね。こうしたねじれは、個人が経済の主体としての活動するところの主体性を、企業に一部預けていることによって引き起こされる。口悪くいえば、「個人」はあたかも消費の「主体」であるかのごとく褒めそやされながらも、実はそれは搾取された後、ほんの少しだけ自由裁量としての主権を残され、その中で慎ましくやりくりする程度の主体性しか持たされていないということですね。生きる分、あるいは頑張った分だけ与えられ、それ以上は贅沢と見なされる。個人は、企業という家から小遣いを貰い、うちを追い出されない程度に自由に振る舞う。こうしたことが意識的に選択されているならばまだしも、これが「自由」の偽装のもとに維持されていることが、ドゥルーズ=ガタリによって「搾取」といわれるゆえんであったわけでした。

つまり、原理的に個人であっても、主体あるいは家として経済活動の全き担い手となりうるにもかかわらず、企業と個人の主体性が似て非なるものとして規定されていることに問題があるわけですが、この点が中村さんの件の後者にも関わることになります。すなわち、確かに個人もまた経済活動の全き主体として機能するとしても、中村さんは企業という家を抜け出し、青色LEDで自分の家をかまえるほどの主体性を発揮していたのかということですね。一説には、会社に出勤することなく、電話にもでないような状態でありながら、給料だけは貰い続けていたといわれているわけですから、ある意味において、いわゆる日本企業のお抱え制の恩恵を十分に得てきたともいえるわけです。そうした企業に対する「契約違反」は、おそらくはアメリカ的な経営から考えるならば、即解雇されるような類のものであるでしょう。だとすれば、発明ができた後に、アメリカ的なリベラリズムのいいところをとってきて十分な対価を要求しようとしても無理があります。例えば、ソフトバンク孫正義は、現在の会社の資金的な基礎を、学生時代自ら発明した翻訳機械をシャープに売り渡したことで得たといわれていますが、真に「発明の対価」が問題となるのは、こうした主体対主体の場面においてのみだといわなければならないわけです。このことがきっかけで、日本の特許に対する考え方がどう変わるのかわかりませんが、「技術者に勇気」を与えるのであれば、社会で主体としてやっていけるだけの力もまた、同時に養っていく必要があるのではないでしょうか。