ポストモダンと科学

いろいろとコメントありがとうございます。取り立てて他のネタもないので、エントリを立てて答えさせていただきます。

モボさんのおっしゃることは基本的にはそうかなと思います(特に、そんなけんか腰にならんでも、みたいな部分)。ただ「ポモ叩き」云々は、一応、今回の一連の騒ぎのはじまりに僕が書いた「暴言」の一部に対応させて書いたものでした。つまり、いなばさんの経済学書のはじめのところに、その本の「想定される読者」に、ソーカル事件ポストモダンに対する幻想が壊れた人というのがあったのですけれども、僕自身は当時、あんな流行りもんに影響受けてポモから離れる人なんて本当にいるのかと思っていたものですから、なんかあの事件を思想史上のスキャンダルとしてまともに受け止め、しかもいなばさん自身ももしかしたらその幻滅組に入っているのかもと思い、それは「ポストモダン」自身を哲学としては考えず、流行りものとして受け止めた結果ではないのか、というわけでした。

この点で、「うんこ」さんのコメントにも関わることになるのですけれども(というか、あらしにつかうときには、ハンドル名もこうして攻撃性の高いものを選択するというのはよくあることですけれども、それが呼びかけの固有名としても一応機能するということは、かなり興味深いことです)、うんこさんがいわれる「疑似科学」というときの、「科学」という内実が問題になると思います。

ひとつには、「科学」を「自然科学」と同義のものとして捉えるという考え方があると思いますが、そうだとすれば、うんこさんの話は、別に哲学のみならず、「社会科学」を標榜する、社会学や経済学にもあてはまることでしょう。かの学問が自然科学と同様の反復可能性や実証性を有しているとは思えません。

おそらく、うんこさんは、他のコメントから考えて(同一人物だとすればのはなしですが)、自然科学の領域の学者なのかと思われますが、しかし、話の文脈からいって、社会学とか経済学をも一緒に批判したかったのではないでしょう。しかし、そうだとすれば、そのときの「科学」は、もう少し広い意味で介するべきであることになるはずです。

実際、科学(science、scientia)というのは、今日的なバイアスを抜きにして考えれば、単に「知」に関わっているかどうかということが特徴とするはずで(本当は哲学史を語り出せば、もちろん、scientiaは神学を主人とし、哲学を第一のはしためとするようなものだったわけですが、そんなことをいってもここでは仕方ないので)、それに対して「疑似」ということは、学問として成立しないということを意味するはずです。しかし、こうして大きく「科学」をとれば、「哲学」を疑似科学として批判することはできないことになります。うんこさんがご自分の勝手なパースペクティブでどう認定されるのかはともかく、哲学を学問ではないということはできないと思われますから。

とまあ、こうして考えると、ご批判は、「擬似的に自然科学を模倣する哲学」、つまり、ソーカルが批判したようなポストモダンの哲学に関わるだったということになるわけですが、そういうことですか。

まあ、この件については、実際のところ、ポストモダン自身の哲学的射程というのとは別に、それを喧伝する側の哲学系の人々の「理科系コンプレックス」みたいな部分も大きく関与するので、哲学側に問題がなかったとは思いません。あんまり本質的ではありませんが、僕自身は理科系の出身で、理科系の人間の教養のなさに心底嫌気がさすことはあっても、その学問自体はそれなりに面白いと思うものなのですが、ときに、人文系出身のひとの数式アレルギーみたいなものに驚くことは多々あります。ひとによっては、経済学で使われるようなごく簡単な数学でさえも駄目というのですから。なので、例えば、ドゥルーズなどが自分の哲学を微分を用いて書いたりすると、それでもって一気に数学をも征服できるのではと思い、実際そのような論文の書きぶりをした人もいなかったとはいえず、そうした点にソーカルやなんかの批判が向けられるというのは、ある意味でよく理解できるわけです(ソーカルの批判が誠実なものであったとは到底思えませんが)。

しかしながら、やっぱりそれは表層的な見方で、例えば「微分」ひとつにしても、少なくとも僕は、それまで微分を扱うことさえできたものの、微分のなんたるかということについて、いくらライプニッツニュートンのものを読んでもしっかり理解できていなかったのですが、ドゥルーズのいうような「微分」に触れて、そうしたことを、まあ少なくともドゥルーズ哲学の枠組みの中で、考える余地ができたのでした。そうして内在的にものを考えるならば、かなりの可能性を与えるものであるはずのものを、単に自分にとって近づきがたいという理由で避け(「なんかようわからん理屈こねてるだけ」)、ひとの批判に乗じてこれをなきものにしよう(「首を吊れ」)というのは、学問的な誠実性をいちじるしく欠いた行為であるといわざるを得ません。匿名のネットだから責任をとる必要はないと思われるのかもしれませんが、しかし、その場合でも、ドゥルーズのいうような分裂者でなければ(そうであればそれなりに面白いと思いますが)、少なくともご自身の中では誰が発言していたのかよく理解しているはずですから、そのあたり、少しは考えられた方がよいように思われますが、いかがですか。