ポストモダンの哲学性

いろいろと反応いただきありがとうございます>みなさま。

要するに、ポストモダンの哲学的な可能性云々いうなら、まずそれを提示して見ろ、ということでしょうね。しかし、実のところ、非常にマイナーなところではあるのですが、僕はそれをすでに論文にしていたのでした。何度も宣伝して恐縮ですが、

  • 荒谷大輔「出来の論理学−『アンチ・オイディプス』の哲学的基礎付け」『情況』(情況出版)、二〇〇三年七月号、pp.146-161

です。内容は、『アンチ・オイディプス』の「三つの総合」という概念を、認識論と存在論の枠組みを乗り越えるものとして評価するというもので、アリストテレスにおいて「分析」と対概念とされる「総合」の存在論的な論理学(主に、『トピカ』)と、カントに認識論的な「論理学」の総合の概念を引き継ぐものとしてドゥルーズ=ガタリの「総合」の概念を捉え、それが両者の枠組みを刷新させているものであることを示す、という感じのものでした。

古いところで恐縮ですが、ミュルダールが指摘するように、新古典派の経済学の価値のとらえ方も、そうした認識論と存在論の哲学的問題を不問にふしながらテキトーにやっているものだと思いますが、ドゥルーズ=ガタリは、そうした認識論と存在論の交錯みたいなのを真摯に受け止めながら、それを乗り越える図式を与えている、ということを示そうとしたわけです。

という感じで、とりあえず『アンチ・オイディプス』に限られますけれども、「ポストモダンの哲学における継承性みたいなものを示す」ことは可能で、かつ「僕自身がこれを実践している」というのは理解していただけますでしょうか。なので、いなばさんのいう

それは「ポストモダン」自身を哲学としては考えず、流行りものとして受け止めた結果ではないのか、というわけでした。」とのご指摘、なかなかに感じ入るところもある。しかしこの発言が実のあるものであるためには、第一に「ポストモダン」を単なる流行ものとしてではなくきちんと哲学として継承することが可能であり、第二に荒谷氏がそれを実践している、という二段階の条件がクリアされていなければならない。[インタラクティヴ読書ノート別館の別館]

というお題であれば、もちろん、僕がやっていることですべてが尽くされるとは思いませんが、ある程度クリアしていると思います。とはいっても、おそらく、いなばさんやそのほかの興味本位のギャラリーの人々は、こうした哲学内在的な問題にまで付き合ってくれるとは思えないのですが。しかし、

荒谷氏の言動にはそういう「ひょっとしたら俺もこの条件をクリアできていないのかも知れん、いや少なからぬ他人にはそう映っているようだ」という怖れの念があまり見当たらない。そういう無防備さがなければ、先のような、私の浅薄な哲学理解に対するそれ自体がごもっともなお怒りをあまりにストレートに出す、などという振る舞いは可能とはならないだろう。

というようなことをいいたいのであれば、上記の論文を読んでからにしてもらってもいいですか?手に入りにくいかもしれませんので、こちらから送る手間は惜しみません。

ついでにいえば、ドゥルーズはピーなのだから、ピーに内在してもそれだけピーであることを証明する、といった話は、正直、社会学者も、狂気と正常を分かつ権力について、フーコーの言説など読んでいるはずでしょと思ったりしますが、上の論文でも、一見するところ(というかかなり常軌を逸していると思われる)キチガイの沙汰であるようなアルトーの命題が、それなりの「論理学」の産物であるということが従来の哲学の継続において示されているので、そういった向きも是非一読ください。読んでやってもいいというかたは、とりあえずその旨コメントを。

で、以上、哲学プロパーの話で、この点については、いなばさんの方が不用意に足を踏み入れになったと思うのですけれど、問題はこうしたことが自閉しているのではないかということですね。いや、実際のところをいえば、ずっと前のエントリに書いているように、

しかし、もうひとついわなければならないのは、哲学者もいい加減そのような態度をやめるべきではないのかということだ。有り体にいって、一旦社会から身を引きはがして内在的に思考し、そこで「真実」を組み上げるといった手法は、哲学内部において乗り越えられるべき病巣であると思う。そうした「病巣」は、おそらく、「私」なるものを思考の中心に据えたデカルトやロックの近代までさかのぼり、哲学が哲学であることの礎にも近いことだといえよう。だが、そうした礎に安住して、諧謔的にしか設定されないはずの自己を、ねじ曲がった仕方で肯定することは、もうやめなければならない。最近でも、永井均のように、自己に内在する「哲学」の廉価版の再生産をする人が後を絶たない。だが、もし、そんなことが哲学であるならば、哲学は死ぬべきであるといわなければならないのである。

今度こそ、哲学は、内在的な観念論の逆立ちをやめなければならない。それは決して通俗的な価値観に迎合することではないし、ましてや通俗マルクス主義的にお子ちゃま対立図式を振りかざすことでもない。それは、それまでの脱俗的な批判態度を実践へとうつることである。社会の実相で、主体性を持ちうる哲学のあり方が、求められているのである。[20050124]

と、僕も主に哲学畑の人に向けて呼びかけていたわけでして、そこらへんの「病識」はある程度(程度の問題は重要かもしれませんが)持ち合わせているつもりなのでした。

では、僕はどうするつもりなのか。かなり大雑把にいえば、近代以降、哲学が自閉するに至った原因のひとつは、認識論的に世界を記述することに終始するようになり、その意味でひとりの過度の「思い込み」と「哲学」が切り離しづらくなってきたと思うのですが、そうした哲学における近代の病を、存在論的に乗り越えるということが、まずは哲学の内部において求められているのだと思います。まあ、これはある意味において、上の論文に書くまでもなく、ポストモダンの試みの典型でもあると思うのですが、そうしたことを単なる文学的な語りではなく、きちんと哲学的に規定し直す一方で、哲学が「私」に沈んでいく一方で、世界をそのままに語るものとして新しく登場した社会学や経済学などの領域に対して、積極的に批判するような機能を持たせていくことが必要なのではないかと思います。実際、上に少し書いたように、特に経済学は、実際的な要求のために、理論的な基礎付けを放棄するということが多分にあると思うので、その点を問い直す必要がある。ずいぶんな大言壮語で、すぐに妄想とかキチガイとかいう言葉が飛んできそうではありますが、しかし、僕ができるかどうかは別としても、世界の情況を、単に現象を追って記述するだけでなく、きちんと批判的に検討することが必要であることにはかわりないと思うのですが、いかがでしょうか。