キャッチャー川本の倫理学

「期せずして最終巻となった」(誰のせいか知りませんけれど)、岩波応用倫理学シリーズの最終配本は、「経済」がテーマですね。

岩波 応用倫理学講義〈4〉経済

岩波 応用倫理学講義〈4〉経済

巻頭の「講義の7日間」に、編者の川本さんによる、「経済学と倫理学のキャッチボール」が載っています。いわく、「陰鬱な科学」である「経済学」と、「陽気な学問」である「倫理学」との「対話」だそうで(わかっております。これに対して突っ込みたいのはやまやまでしょうが、とりあえず)、経済学者がいろいろと難しい球−−市場というカーブ、所有というシュート、租税というフォーク−−を投げてくるので、それをうまく受け止めよう、というのが、彼の趣旨。実際、そうやって、「経済と倫理」の枠組みで現在話題になっているトピックスのおさらいをしてくれているのは、講座ものとしては一定の役割を果たしているのでしょう。彼のキャンチング能力の高さにかかれば、レヴィナスの『全体性と無限』のエコノミーについての記述から、森まゆみの『谷根千』コミュニティに至るまで、「ホントにその意味をわかって受け止めているのか」、という疑問ギリギリのラインが、いたって普通の日常の出来事のように、受け止められていきます。あたかも、「受け止めること」自体が、「倫理学」であるかのように。

しかし、どんな球に対しても、「いやあ、いいボールです。僕はこの球のファンを自任するなぁ」とか、「僕は、あなたの紹介者として、幸せ者です」とか言い続けることが、果たして「倫理学」の仕事なのかどうか、強い疑問が残ります。たしかに、それは「陽気」です。「お気楽」でありうるぐらいに。彼の陽気さの前では、どんな学問も「陰鬱」に見えることでしょう。しかし、そういう彼の「倫理学」は、キャッチした球を万人が受け取りやすいように、緩やかに投げ返すだけで、何か新しいものを生むようには感じられません。確かにキャッチボールは大切で、様々な学問の間のコミュニケーションは今まさに求められていることだとは思います。ですが、そうした対話が、日曜の平和な午後の公園でしか成立しえない、ゆるいものであるならば、おそらく何の意味も持たないように思われます。鋭く切んでくる球も、彼によって「受け止められる」ことで、もはや実効性のうすい「道徳」に薄められてしまう。実際、新古典派経済学を批判するに、あんなにユルい「道徳」の欠如を訴えられたところで、経済学者にどれほど訴えるものがあるのか、疑問なのですが、そのあたり、どうなのでしょうか。

仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想 (光文社新書)』

日本とドイツ 二つの戦後思想 (光文社新書)

戦後60年を記念して、ドイツと日本の戦後思想を比較しつつまとめ直す。著者もいうように、なんと安直な企画かと思いきや、この本は、単に「戦争責任」の取り方についての日本とドイツの態度の違いを示すにとどまらない。戦後、国際社会上、日本とドイツが占める位置に応じて、異なった反省の仕方をしてきたことを、それなりに辿り直すだけでも、新書にはありがちだが十分であろうに、この本は、戦後、「資本主義体制」下において、日本とドイツの「マルクス主義」が果たした役割の違いや、フランスでのポスト・モダンの動きの両国の受容の違いに至るまで、現代の思想状況なども射程にいれていて、なかなかに面白いものとなっていた。

とくに、この界隈に生きている人間にとっては、いまだ「口承的」にしか共有されていなかった、「身の回り」の思想界の出来事−−たとえば、中沢真一の東大就任問題や、日本のポストモダニズムの文学的軽さに対する、近代化主義左翼の無視など−−が、こうして活字にはっきりと記され、思想史的な流れのなかに位置づけられるのをみると、なんというか、独特の「遠さ」の感覚を覚えるとともに、「歴史記述」というのは、こういうことかと実感させられてしまいます。もちろん、「歴史記述」である以上仕方ないことですが、「中立の評定者」の役割をかってでた語り口に、多少違和感がないわけでもなく、まさにそのことによって照らし出される著者の立場の取り方に依存して、若干の微妙な評定の「不公平」を感じないわけでもないですが(というか、個人的にはかなりスタンスの取り方が近いひとだということを確認しましたが、僕も含めて「公平」ではないよなぁ、と)、でもこれだけ広範に戦後のドイツと日本の思想状況を一定のパースペクティブマッピングできるのは大したものだと思います。実際、細切れでは知っていた情報ばかりでも、こうして並べられると、いろいろと気がつかされることもありましたし。読んでみて損はない一冊かも。

他、書くネタはあるものの、書く暇がないため、また次回にでも。

「倫理学」の黄昏

だーいぶ、長いことご無沙汰してしまいましたが、ぼちぼち夏休みということで、更新させてもらいます。

このブログは、ちょっと調べれば誰がやっているのかわかるといった感じで、例えば別な方面で僕の名前を知って、ネットで検索した場合などは、間違ってもこのサイトがトップでヒットすることはないように、といった曖昧な位置づけでやってきたつもりだったのですが、それでもひとあたり盛り上がったときもあったために、意外なところで見ましたといわれることが増え、ネット上のキャラと他の個人的な文脈でのポジションの取り方など、微妙に錯綜した感じになっておりました。なんか、そうなると、もう、いろんな文脈で生じうる意味などを考えてしまって、容易にエントリたてられん、という情況になってしまっていたわけですが、それで、気がつくとこんな時間があいてしまっていたということでした。なんらかのネタを期待して見てくれていた方には申し訳ありません。

ついでにダラダラと書かせてもらえれば、そもそも何かを書くということは、360度さまざまな文脈と解釈に開かれた状態にものを投げ出す、ということなので、本当は何らかの覚悟が必要であるとともに、そうした情況に耐えうる形式というものが求められると思うのですが、ブログでうまくそういう要件を満たすためには、どうすればよいのでしょうね。いや、単に、ネット上のキャラと割り切ってしまえばよいのかもしれません。が、日々の出来事の断片の記載するという建前上、「あれはテレビ用の顔ですから」とかいうのと同じように逃げられるものかどうか、わからない面もありますね。

えー、まあ、しかし、何にせよ、ちょっとした事情で、ここで打ち切り、というわけにはいかないようなので、ぼちぼち最近の話題から。先日、倫理学関連の某事典の編集会議に出席したことについて。

実際、「倫理学」って学問の外延はきっちり定まっておらず、説明するときにも境界をぼかした逃げるような答えしか(僕は)できないのですが、まあ、その「倫理学」の事典が、これまでも古くは金子武蔵のものから存在しており、微妙ながら世間的にも認知されているわけです。しかし、今回は、それとは事情が異なる様子。哲学や宗教と微妙な関係を保ちつつ自らを位置づけてきたこれまでの「倫理学」とは異なり、今回は、どうやら「はじめて」、「倫理学」の独自の領域を対象にする事典となる模様。書も「現代」を銘打って20世紀以降を対象にし、各論にまで分裂した「応用」をフォローする、とのことで、個人的には、そうですか、業界の流れはそうなってしまうのですか、という感じなのですが、困ったのは、この文献リストを作る役目を分担することになったこと。編集委員にあらかじめこさえてもらった項目を執筆するならば、書全体のことについては彼らに責任をとってもらえばよいのでまだいいのですが、関連する文献を挙げよ、というのは、いきなり、そもそもいうところの「倫理学」とはなんですか、ということが自らの仕事の問題になってしまうわけです。って、知らないっすよ、そんなの。編集委員の何人かは僕が「応用倫理学」なるものにコミットしていないことは知っているはずなのに、そんなに人間に一翼でも担わせるっていうのは、どういうことなんでしょう。O氏などは、関連領域として、是非カミュ等の文学作品も載せたいなどとおっさる。いいたい気持ちはわかるとして、「では倫理学って何なの?」という問いが強く喚起されてしまうことは、否めないでしょう。個別の対象領域に向き合ったとき、逆に固有の論理を失う危険を感じてしまうのは、僕だけでしょうか。

ライブドア関連

先の騒動で得たお金をどう使うか。少し前に発表された無線LANサービスに加えて、Wikiもやるみたいです。

うーん、かなりIT好きのポイントをついている感じ。そこら辺のセンスはよいですね。僕も絶対持たないだろうと思っていた livedoor ID を作ることになるかもしれません。

第二十五回 哲学/倫理学セミナー@光合成

今日は朝から蒸し暑い日が続きそうですね。

ふと水鉢をみると、強い日差しに水草がそこここで光合成し、盛んに空気をはき出していました。それを巡って金魚が水鉢の中を動き回る。

また、ご案内が遅れましたが、今日は哲学/倫理学セミナーです。

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      第二十五回 哲学/倫理学セミナーのご案内

 思考のラディカリテートを、単に表面的なアクチュアリテートの
 みを追い求めることなく、その歴史の〈深さ〉に探り当てていこう、
 そのような趣旨で立ち上がりました「哲学/倫理学セミナー」も、
 下記の通り、第二十五目を開催する運びとなりました。引き続き、
 東京大学倫理学科の熊野純彦先生をお迎えして、皆様と議論を深め
 ていきたいと思っております。ご参加をお待ちしております。


            記 

 第二十五回例会 平成17年6月25日(土)
              於 東京文化会館 中会議室2
          (http://www.t-bunka.jp/around/around.htm
                  14時から16時50分まで
    発表 「悪と超越―レヴィナスとナベール―」
                          中 真生

  プロティノスアウグスティヌスをはじめ多くの哲学者は、
  存在が善であるのに対し、悪を、非存在、あるいは存在の
  欠如だと考えてきた。他方でマニ教ゾロアスター教は、
  これに抗して、悪は善とは独立したもうひとつの原理だと
  考えた。ところがレヴィナスの悪の考察は、このどちらに
  も与さない。彼にとって悪は、善の欠如ではなく、却って
  善を超え出る過剰、超過である。さらに悪はその超過によ
  って、他なるものとの関係というレヴィナスにとっての真
  の善へと道を開くものである。こうした悪は、「私」の身
  体的苦しみを通じて考察される。悪の問題を、悪を被る者
  の視点から離れて、正当か否かと客観的に判断するものと
  考えないのが、レヴィナスの悪の考察の特徴である。
   この立場を共有しているのがナベールである。ナベール
  は『悪についての試論』で、悪一般を考察するのではなく、
  私が経験するものとして、具体的には罪の感情として悪を
  考察する。ナベールにとって悪は、何よりも私が「正当化
  しえない」と感じるものなのだが、罪の感情は、自らの過
  ちにとどまらず、自らの力を超えた「正当化しえないもの」
  にまで及ぶ。「正当化しえないもの」は、道徳規範によっ
  て判断することも、私の認識能力によって理解し尽すこと
  もできない。これらを超えたもの、この意味で超越である
  と言える。レヴィナスとナベールの思想の差異を過少に見
  積もることはできないが、それでも悪についての考え方に
  はある共通点があるように思える。
 
  *今回の発表は、5月の日本哲学会での発表原稿に、「レヴ
  ィナスにおける無限の観念と超越」という小論を加えたもの
  になる予定です。

  参考文献
  ・「無用の苦しみ」
   「われわれのうちなる無限の観念について」
    (レヴィナス著『われわれのあいだで』法政大学出版局所収)
  ・「超越と苦痛」
    (レヴィナス著『観念に到来する神について』国文社所収)
  ・レヴィナス著『全体性と無限』(国文社)特に序文

                         以上

なお、お手数ではございますが、会場の手配の都合がありますので、
第二十五回研究会に出席いただける場合には、ご一報いただければ幸
いです。


■(予告)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 第二十六回例会 平成17年7月30日(土)
               於 文京区区民センター 3-D会議室
       (http://pe-seminar.hp.infoseek.co.jp/map.html
                  14時から16時50分まで
    発表 「歴史の持つ力(仮)」
                         佐藤 香織

     参考文献
      レヴィナス『全体性と無限』(合田正人訳、国文社)他

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哲学/倫理学セミナー
           (http://pe-seminar.hp.infoseek.co.jp/

学内身体論研究会

学内の身体論研究会に出席する。「身体論」といっても確たる定義がないような状態で(京大にある研究所も成果を見る限り単にカルスタの分派のような感じ)、なかなかに議論を積み上げるという情況には至っていないが、いろいろな分野のひとが参加して、各々の材料を提示していくというやり方は、駒場のCOEの研究会のときもそうだったけれども、きちんと収斂さえしていけば結構面白いかもしれないと思う。

今回からNHKのドキュメンタリー畑出身の先生が参加され、メディアの作り手と受け手の間の隔絶を問題として提起していた。曰く、メディア・リテラシーの授業をすると、学生が番組の背後に作り手の存在を全く意識していないことに驚かされる、とのこと。それは番組制作実習でも同じで、自ら作る側にまわったときでさえ学生は、メディアを平面的で透明な媒体としてとらえ、取材をすることによってそこに作り手側の「表現」が否応なく介在することに意識することはないのだそうだ。

そうしたメディアのメディア性のようなものを、「身体」というキーワードで捉えたいというのがその方の趣旨だったが、現場でやってこられた方のそうした感性に感嘆しつつも、それに対するT先生のコメントに大いに首肯するところがあった。すなわち、今の学生は、授業などでも情報に対して受け身的で、いろいろなものを「与えられる」ことに慣れすぎているが、そうした傾向には、他ならぬテレビの影響がひとつの大きな原因としてあるのではないかとのこと。

そうした話を聞くに、僕などはつい自分の関心にひきつけて、「認識論的な動物化」の傾向*1を考えてしまうけれど、それってやはり、とりわけ「身体」というものが、「個人主義」的な方法論の中で「個」の中に封じ込められていることに起因するのだと思う。

学科再編やら何やら事務仕事でバタバタと忙しい時分に発表を引き受けてしまったので、そのあたりをなるべく専門的な前提を必要としないかたちで、まとめてみようと思う。

*1:紛らわしいから付言しとくと、東浩紀は、ボードリヤールやらコジェーブやらを「状況証拠」として、それを「ポストモダン」と同値に考えているけれど、それは主体性の欠如という「ポモ」の大きな特徴を捉え損ねているので、ここではとりあえず無視